日曜日の昼過ぎ、少年はとにかく茶の間の隣、寝室も兼ねた床の間のある部屋の隅に置かれた自分用の机に座って受験勉強をしていた。

 頭には入ってこなかった。明日麻子は学校へ来るだろうか。そんなことばかり考えていた。 

二時頃、茶の間から母が顔を出した。

「広延、電話だよ。清水さんって子」

 母はニヤニヤしている。電話の相手がこの前の通夜の家の子とは思いもよらぬようだった。

 考えてみれば、麻子の方から少年の家に電話がかかって来たのは今日が初めてだった。

 麻子のことを家で口にしたことはなかったから、母だけでなく、茶の間でテレビを観ている父も兄も姉も、少年と麻子の子とは知らないのだ。

 少年は急いで電話口へ行った。

 家の人が聞き耳を立てている気がしたが、気にしている場合ではなかった。

「もしもし」

 少年は思わず大きい声を出した。

「もしもし、私だけど、わかる」

 わかるに決まっている。

 少年は、元気だった?と聞こうとして言葉を飲んだ。

元気なわけがなかった。麻子の方から、

「元気だった」

 聞いてきた。

「うん」

 と言ったがあとの言葉が続かない。少年がしばらく黙っていると麻子が、

「今日これから時間ある?」

 と言った。

「うん」

「会ってほしんだけど……」

 もちろん少年は承諾した。

 電話を切ると、机に行き、背もたれのジャンパーを引っかけ、自転車に飛び乗った。

 麻子が指定した場所は、中学からさらに十分ほど北にある、こんもりとした林に囲まれた神社だった。

 バレー部でよく行き、長い石段を体力トレーニングに使っていたから、少年も場所は知っていた。

 自転車を走らすと空気が頬に冷たかった。薄曇りで陽はさしていない。富士山も見えなった。とにかく急いだ。

 神社に着いた時には少し汗ばんでいた。

 自転車を停め、長い石段を見上げた。葉を散らした樹々が石段を覆っている。石段の頂に古びた鳥居が見えた。

 あの向こうに麻子がいる。

 少年の胸は高鳴った。押さえるように、ゆっくり石段を昇り始めた。足元で落葉が乾いた音を立てる。

 数段昇った所で、ふと、少年は、何を話せばいいのだろう、彼女に何と言ってやったらいいのだろう、と思った。

 気のきいた言葉など浮かんで来ない。

 急に会うのが怖くなって足を止めた。

 でも、麻子の方から会おうと言ってくれたのだ。とにかく会おう。顔を見せるだけでもいいじゃないか。

 思い直すと少年はまた石段を昇り始めた。

 昇り切ると、樹々に囲まれた二十メートル四方の境内があり、奥に社が建っている。

 賽銭箱の前の木の階段に麻子はポツンと座っていた。

 少年に気づくと、麻子は立ち上がり、じっと少年を見た。

 白い手編み風のセーターに深緑のロングスカート。

 うれしさと困惑の混ざった感情で挨拶さえ口から出ない少年は、黙って麻子のところまで行った。

 麻子は少年を見たまま、

「ごめんね、呼び出したりして」

 と言った。

 意外に明るかった。少年は暗くだけはしないように、と思った。

「そんなことない。うれしかった。電話くれてありがとう」

 少年は思ったままを伝えた。

 麻子は少し微笑んで、木の階段に腰を下ろした。少年も少し離れて階段に座った。二人ともしばらく黙っていた。

 境内は樹々に囲まれ石段の下まで枯れた木が立ち並んでいる。落葉の匂いが微かに漂い、辺りは物音一つしなかった。

「今まで私、広延君のことどう思っているかって、言ったことなかったね」

 麻子が話し始めた。少年は左側に座っている彼女を見た。

 心持ち目を上にあげ、正面を向いたまま独り言のようだった。今日も束ねていない長い髪を、右手でスッと後ろへなびかせた。

 大人のようだな、と少年は思った。

「広延君のことね、最初に意識したの中一の二学期だったかな。私が委員長で、帰りの学活で話し合いしようとして、みんな全然聞いてくれなくて。

 私思わず泣いちゃって、そしたら広延君が静かにしろって言ってくれたでしょ。あの時かな。覚えてる?」

 少年は、麻子の涙を思い出し、軽く頷いた。麻子は続けた。

「この人、勇気あるなって思ったし、何よりうれしかった。でも、その時はそれだけかな。

 席が近くなって、広延君、ひやかされて赤くなって。少し困ったけど悪い気しなかった。そんなに私のこと好きなのかなって。

 そのうち、私も好きなのかなァなんて思うようになった。

 でもね、決定的だったのは朝の体育館。広延君あの頃、毎朝体育館行ってレシーブの練習してたでしょ。あれなんて言うんだっけ、飛び込むみたいにして片手でレシーブするの」

 麻子が少年の方をチラッと見た。

「フライング・レシーブ?」

「そう、それ。私、何か用あって、朝早く体育館に行ったら、広延君がいた。山川君と西山君と一緒に。最初なかなかできなかったよね」

「結構苦労した」

「それから私、一週間くらい、早めに学校行って見てたんだ」

 麻子は少年を見ていたずらっぽく笑った。少年は驚いていた。麻子がそんなところを見ていたことに。

「一週間目くらいに、遠くへ投げたボール、広延君が追っかけてって、フライング・レシーブ? それで拾ったとき思わず手叩いてた、私。この人努力家なんだなァって思った。

 それ知ってたからね、テストの成績よかった時も、頑張ってるんだろうなって思った。頑張る人なんだって。

 気づいたらね、いつも広延君のこと考えてた。今もね、広延君は頑張り屋だって気持ち変わらない」

 少年は心の底からうれしかった。鳩尾から力が溢れてくるような気がした。

 でも、なぜそんな話を急に始めたのだろう。恥ずかしがり屋の麻子が。

 少年の気持ちを見透かしたように麻子は言った。

「私がこんなこと話したから、驚いてるんでしょ」

「うん。でもうれしいよ、とっても」

「恥ずかしかったけどね、言っときたかったの。それにね、本当言うと、広延君が私のことどう思ってるか聞きたいんだ」

 少年はとまどった。麻子への気持ちにうそはなかった。

 が、手紙では書いたものの、彼女のことをどう思っているのかを、今うまく言葉にする自信はなかった。

 麻子は二重の目に力を込めて少年を見つめている。

 きっと今、彼女は、自分の言葉を必要としているのだ。とにかく話してみよう、と少年は思った。

「突然だからさ、うまく言えるかわかんないけど。今、清水さんが言った中一の学活の時のこととか、ソフト部の先輩に掛け合ったこととか、前、手紙に書いたよね。

 そういう清水さんの何て言うのかな、へつらわないとこっていうか、真っ直ぐなとこ、すごいなァって思う。

 そういうの見てさ、清水さんと話したことあったろ。その時清水さん、なぜ悩むか考えて相手にぶつけちゃうって言った。

 それがさ、大げさに言うと、いままでの俺を支えてくれたんだ。フライングレシーブだって、自分なりのぶつけちゃうだったし」

 少年は照れ臭くて、ジャンパーのポケットに両手をつっこみ、自分のスニーカーの先を見ながら話していた。

 だから麻子がどんな様子で聞いているのか、少年にははっきりとはわからなかった。

 少年をじっと見つめる麻子の視線だけは感じていた。

「うまく言えないけど、こんな感じかな」

 照れ臭さをごまかすように、少年は少しおどけて言った。

 麻子の方を見ると、彼女は視線を前に向け、しばらく黙っていた。そして、

「ありがとう」

 ポツリと言った。

「そんな、お礼言われるようなことじゃないよ」

 少年は強く言った。

「ううん、本当、広延君にそう言ってもらうと私、すごくうれしいし、自信っていうか、力が湧いてくる。

 今、しっかりしなきゃいけないって思ってるから、広延君に直接聞きたかったんだ。ありがとう」

 今度は、少年は何も言わなかった。

 だた、頑張ってと、強い気持ちを込めて麻子を見つめた。麻子も少年を見つめ返した。

 彼女は視線を前に向け、遠い目をして話し始めた。

「お父さん、出張から帰ってくるとね、麻子今度は何の料理作ったんだって、いつも聞いてくれた。残ってるなら食わせろって。

 だからお父さんが帰ってくる日は、いつも私が料理作ったんだ。勿論お母さん元気な時は手伝ってもらってね。

 それ食べるとね、お父さん、うーん、おいしいな、お母さんの味に似てきたなって言った。

 妹と弟にも、お姉ちゃんのはおいしいなァって」

 淡々とした言い方だった。その分だけ一層麻子の悲しみが少年にはわかる気がした。

「夏に広延君と会った後でね、出張帰りのお父さんが私の作ったカレー食べながら、これなら麻子はいつでもお嫁さんに行けるなって言った。

 私、うんって言っとけばよかったのに、お嫁になんていかないもん、小学校の先生になるんだって言ったんだ。お父さんちょっとびっくりしたみたいだった。

 だから私、友達だってすごく向いてるって言ってくれたよって広延君のこと思い出していったら、お父さん、そうか小学校の先生か、じゃ大学行かなきゃな、お父さんも頑張らなきゃなって言ってくれたんだ」

 麻子の声は震えていた。少年の眼も熱く濡れてきた。

「広延君、私が先生に向いてるって言ってくれたね」

「うん。そう思う」

 少年は涙を追いやるように強く言った。麻子は遠い目のまま、

「だめだと思う」

 小さく言った。

「どうして」

 少年は大きい声を出していた。

「お父さんのことあってね、私茨城へ引っ越すの。大学にも行けないと思う」

 麻子は投げ出すように言った。

 イバラギヘヒッコス?

 言葉の意味が少年の頭の中で像を結ぶのにしばらく時間がかかった。

 像が焦点を結んだ時、少年は思わず強い口調で言った。

「何とかならないのか!」

 麻子は少年を見つめ激しく言い返した。

「私だって何とかしたい。でもダメ。

 お父さんのこと、正直言ってまだよくわかんないの。ただちょっと長い出張でも行ってる気がする。

 でもいつまでもそんなこと言ってられない。お母さん体あんまり丈夫じゃないし、伯父さんとこ行くの。

 私、高校行けるだけでも有難いと思う。そう思わなくちゃいけないと思う。弟は男だから大学行ってほしいし。私だって広延君と同じ高校行って、大学行って、小学校の先生に……。

 お父さんに戻ってきてほしい」

 そこまで一気に言うと、麻子は突然両手で顔を覆った。小刻みに肩が揺れ時折嗚咽が漏れた。その声が少年の胸を切り裂いていく。

 ぶつけちゃう。

 不意に麻子のあの言葉が浮かんだ。

 今、どこにぶつければいい?

 あの言葉とともに輝いていた麻子の姿が少年の脳裏に浮かんでは消えた。

 少年は肩を震わせている麻子から視線を移し、境内を、鳥居を、石段を、樹々を睨みつけた。

 けれどそれらは曇天の下、ただそこにあるだけだった。

 少年は何もできず社の前の木の階段に座っていた。

 麻子の嗚咽が途切れ途切れに聞こえる。