昨日から冷たい雨が降り続いていた。
もうそろそろ三時間目が終わろうというのに、暗い雲が空一面を覆い、教室には蛍光灯が点けられていた。
少年は三階の教室の窓際の席から、雨を嫌というほど浴びている隣の木造校舎を眺めていた。
気持ちが沈んでいく。ぶるっと震えが来た。
早くストーブをいれてほしいな。
そう思ったときチャイムが鳴った。
休み時間、少年は前の席の友人と話をしていた。
と、突然、後ろから右肩を強く掴まれた。驚いて振り返ると、山川が真剣な顔で少年を見下ろしていた。
「おう、何だよ」
少年は軽く言った。
「広延、聞いたか」
重い口調で山川は言った。
「何を」
肩に力が入る。
「アッコのな、お父さんが亡くなったって」
何を言われたのかよくわからず、少年は黙っていた。山川は続けた。
「さっき授業中にアッコが呼ばれて慌てて先生と帰ったんだ。工事現場でブルドーザーか何かに轢かれたらしい」
言われた言葉だけはわかった。黙って山川の顔を見つめていた。
「お前、お通夜に行ってやれよ。うちのクラスでも何人か行くことになったから。先生に頼んでみろよ」
「ああ……」
言われたことの意味が少しずつ心に広がり始めた。胸が空を覆う暗い雲に押しつぶされていく気がした。
窓から麻子の家の辺りを見た。富士山は雲に覆われて見えなかった。木々も家々も、黙って雨にうたれ続けていた。
小さなスピーカーから読経と木魚の単調な音が流れている。小ぢんまりした庭に数十人程の黒服がぎっしり立っていた。皆押し黙っていた。
雨は夕方にやんだが、寒さは相変わらずだった。辺りは焼香の香に充ち、仏壇だけが闇に浮かんでいる。
制服の十数人の中に少年も立っていた。女子の鼻をすする音が時折聞こえる。
焼香をする人達の陰になって、麻子の姿は見えなかった。
仏壇の上の方に彼女の父親の白黒の写真があった。短く刈った髪に細い目をして口元が少し笑っている。
あれが麻子のお父さんか。
麻子へ電話した時、二三度だったが、彼が受話器を取ったことがあった。少し枷れた声で、
「ちょっと待ってください」
という調子に、少年は温かいものを感じたのだった。
少年の隣で、男が二人小声で話をしている。何となく少年はそちらに耳を傾けた。
「しかし、ひどいねェ」
「何が」
「労災おりないらしいよ」
「ほんとかよ」
「親会社の責任になっちまうだろ。雨の日に現場出したって。だからうやむやにするらしい」
「だけど家族は」
「丸抱えだよ。労災に比べれば微々たるもんらしいよ。清水さんとこの義理の兄さんが親会社でさ、そっちに家族ごと引き取るってさ」
「子どもの学校もあるだろうに」
少年には何のことか、はっきりとはわからなかった。ただ麻子たちはこれから大変なんだろうと思った。
焼香の順番が回ってきて、制服達が並んだ。
少年の番になって前へ行くと、セーラー服を着た麻子が母親の隣に正座していた。
喪服の母親は白いハンカチで時折目を押さえている。麻子の隣には小学生の妹と弟がいた。
麻子は泣いていなかった。眉間に深い縦皺が刻まれていた。
少年に気づいてもほとんど表情を変えず、少年が頭を下げると母親と一緒に深々と頭を下げた。妹と弟もぴょこんと頭を下げた。
焼香の後、合掌してもう一度頭を下げ、少年は麻子を見た。
麻子は一瞬少年を見つめ、うつむいた。顔を伏せたまま、麻子は右手の甲で目の辺りを拭った。
仏壇の煌々とした光に照らされて、麻子たち家族は小さかった。
それからしばらく麻子は学校を休んでいた。淋しかった。
が、そんなことより麻子に何をしてやったらいいか考えようと少年は思った。
何も思いつかなかった。そもそも父親を失うということがどんな気持ちなのか見当もつかなかった。
ただ、電話でいいから早く麻子と話がしたかった。何を話せばいいのか少年にはまるでわからなかったけれども。
初七日が済んだ頃、少年は一度電話してみた。呼び出し音が十回ほど鳴ったが誰も出なかった。
いろいろと忙しいのだろうと思うと、もう電話は出来なかった。
麻子が学校へ出てくるのを待つしかなかった。そうしたら直接話をしようと少年は思っていた。
十日程たっても麻子は学校に来なかった。