圧を持った夏の陽射しが肩を焼き、アスファルトから照り返す。時折すれ違う車が熱い排気ガスを吹き付ける。正面に頂まで紺の富士山が聳える。

 国道沿いに少年は自転車を走らせていた。

 額を汗が滴る。そんなことは気にもならなかった。少年の胸は高鳴っていた。

 中学二年の夏休みもあと二週間しか残っていない。少年には重大な計画があった。

 麻子とは学校ではほとんど話はしなかった。月に二三度の電話は欠かしたことはなかったけれども。

 同学年の生徒はほとんど、二人が両思いであると知っていた。

 他の生徒に中にも、両想いになったと噂されるものはいた。

 けれど、ほとんどの場合、ひと月がふた月、長くて半年もすると、どちらかが気が変わったとか、付き合うのをやめたとかいう噂が聞かれた。

 中一のころから両想いで、二年になっても続いている少年と麻子は珍しかった。

 とはいえ、少年はクラスの違う麻子と休み時間に平気で口を利くことは出来なかった。

 赤面症は治っていたけれども、本当のところ、周りの目を気にして、話をする勇気が少年にはなかったのだ。

 それはとても図々しいことだと少年は自分を納得させていた。

 麻子もこういうことではとても恥ずかしがり屋だったから、電話で話せればいいと言っていた。

 夏休みに入るとすぐ、各部活ごとに中体連の地区大会がある。少年は何とかベンチには入った。

 麻子は二年であるにもかかわらずサードで五番だった。

 バレー部は二回戦で敗退、ソフト部は三回戦で負けた。夏休みもう部活はなかった。

 夏休みの間に一度でいい、麻子と会って直接話がしたい。少年はそう思っていた。一か月近く彼女に会っていない。

 麻子は将来どうするつもりか、そんなことも会って話してみたかった。

 今日こそ麻子に会うんだ、そう決意して少年は昼過ぎに自転車で家を出たのだった。

 しばらく国道を走ると市役所に出る。そこから中学校まではもう一息だった。

 市役所の建物の脇の日陰に電話ボックスがあった。

 少年は自転車を停めた。胸の鼓動が一層早くなる。

 麻子に電話するのはもう慣れていたけれども、その日は特別だった。

 しばらく呼び出し音が鳴り、麻子が出た。

「あ、俺だけど」

 そこまではいつものように話せた。

「こんにちは」

 いつもと変わらず麻子の声は澄んで爽やかだった。

 どう切り出そう。

 少年は麻子への恥ずかしさと周りの目を気にする自分を意識した。それを振り払いたかった。

「あの……実はさ」

「何?」

 思い切って言うしかない。

「今日これから会わない?」

 声が震えた。

「え……いいけど」

「じゃさ、学校の体育館の裏で待ってるから。すぐ来て」

 少年は震える声を隠すように早口で言った。麻子の家は学校から五分程のところだった。

 体育館の裏には大きい観葉植物が厚い葉を一杯にして並んでいる。その脇にひまわりが数輪。いたるところで蝉が鳴いていた。

 少年は体育館の白くざらついた壁を背に立っていた。胸が圧迫される。

 しばらくすると右手に足音。

 ハッとして目を向けると、麻子がうつむきがちに真剣なj表情で少年の方にやってくる。

 赤と白のギンガムチェックの半袖シャツに白いミニスカート。

 少年にとって私服の彼女を見るのはそれが初めてだった。

 きれいだった。

 二つに束ねていない長い髪のせいか、いつもよりずっと大人に見えた。

 少年は思わず下を向いた。麻子はこちらにやってくると黙って体育館の壁にもたれ、少年に横顔を見せて立った。

 平たい頬にチョコンと乗った鼻がかわいい。

「やあ」

 と言ったが声が掠れた。

「こんにちは」

 と麻子は少年を見て言った。その声が微かに震えた。

「悪くなかった? 呼び出したりして」

「ううん」

 しばらく沈黙が続いた。

 少年は遠くに視線をやる麻子の横顔をジッと見ていた。甘く優しいものがこみ上げる。

「そんなに見ないで」

 麻子は頬を染めてうつむいた。少年も恥ずかしくなって視線を落とした。

 赤と白のチェックが胸の辺りで微かに曲線を描いている。ドキリとしてさらに視線を下げた。

 白いミニスカートから健康そうな脚が伸びている。ドクンとした。

 それでも脚に目が留まった。麻子の腿に寒い時にできる斑模様が浮かんでいたから。

 少年はそれが緊張した時にもできるものだということを忘れていた。というより頭に血が上って思いつかなかった。

 少年は、

「寒くない?」

 麻子に聞いた。夏の昼下がりの太陽が照りつけていた。寒いはずなどなかった。

 彼女も大真面目に、

「寒くない」

 横顔で応えた。しばらくまた沈黙が続くと、突然麻子が、

「フフ」

 軽く笑った。

「どうしたの」

「だって、こんなに暑いのに。二人ともおかしいなって」

「そうだよな」

 しばらく少年と麻子は顔を見合わせて笑った。

 少年は、自分の胸を圧迫していたものが随分と軽くなっていくのを感じていた。

「広延君、緊張してない?」

 ドキドキだよ、と思ったけれども、そう言うのもかっこ悪い気がして少年は黙っていた。

「私、電話くれてからここに来るまでドキドキだった」

 麻子が言った。

「俺もずっと。昨日から」

 ようやく少年も素直に言った。

「こういうの、デートっていうのかな」

「俺、そのつもりだったけど」

「そうだよね。私生まれて初めて」

「俺も。あたりまえかァ」

 また、少年と麻子は笑った。少年は笑うたび普通にふるまえるようになっていく自分に気づいていた。

「何か、電話じゃできない話あるの」

 麻子が少年を見たまま言った。会いたかったんだ、と言いたかったけれども、言えなかった。

「うん、電話じゃでいないってこともないけどさ、清水さん高校どことか考えてる」

「うーん。一学期の面談ではね、M高行きたいって言ったんだけど、今のままじゃちょっとって言われちゃった。滑り止めに私立もって位置だって。弟と妹の学校のこともあるし、親は県立行ってくれって」

 M高は市内の県立、普通科、進学校だった。

「広延君は」

「俺もM高かな」

「広延君頭いいもんね」

「そんなことないけど」

「じゃ、やっぱり大学」

「うん、そんなにはっきり考えたことないけど、行ってみたいな。もし行けるなら。東京か京都の大学」

「東京か京都」

「東京は文化の中心って感じだし、京都は修学旅行行っていいとこだなって」

「将来やりたいことあるの」

「具体的にはあんまり考えてないなァ」

「これからだもんね」

「清水さんは。M高だと、やっぱ大学」

「やりたいことあるんだ」

「なに」

「ちょっと恥ずかしいなァ。なれるかわかんないし」

 麻子は照れたような顔をしてから空を見上げた。

「教えて欲しいな」

「小学校のね、先生になりたいの」

 一瞬、麻子が二重のくっきりとした目を輝かせ、笑いながら、小学生に囲まれている姿が心に浮かんだ。

 いいなと思った。ぴったりだと思った。思わず大きい声で少年は言った。

「いいねェ」

「そうかな」

「向いてると思うよ、とっても。清水さんが先生だったら、俺、毎日学校喜んで行っちゃうね」

「そう?」

 目を見開いて麻子は少年を見た。

 少年は麻子を見つめ返し、確信に近い気持ちでもう一度言った。

「清水さんなら、ほんと、いい先生になるよ」

「うれしい。勉強がんばろっと」

「ゲンナリだけどね」

「そうだね」

 また、二人笑った。

 気が付くと、ツクツクボウシが鳴いている。陽が傾き、少し涼しくなってきた。

「私、そろそろ帰らないと」

 麻子が言った。少年の中で華やいでいたものが萎んでいく。それでも、

「そうだね」

 と少年は応えた。

「じゃ、こっちから帰ろう」

 少年は体育館の裏を回って麻子と一緒に歩こうと思った。

 けれどもそちらはフェンスと壁の間に観葉植物が厚い葉を一杯に尖らせ行く手を塞いでいた。

「ダメだ。行けないや」

 体育館の正面を通っていくしかなかった。

 ここで会っただけで精一杯だった。表側を麻子と二人で歩く勇気は少年にはなかった。

「じゃ、ここで」

 少年は自分が情けなかった。

「うん。いろいろがんばろうね」

 明るい麻子の返事に少年は救われた気がした。

 麻子は右手に、少年は自転車に乗って左手に別れた。

 自転車を走らせながら、少年はなんだかだいした仕事をやり遂げた気がしていた。

 麻子と直接話せたのがうれしかった。

 麻子の横顔が少年の胸をよぎる。

 秋を感じさせる風が少年の頬を撫でた。

 ツクツクボウシの声が、二人がいなくなった体育館にいつまでも響いていた。