その日の夜、自分の部屋のない少年は、両親と兄、姉が寝るのを待って茶の間のテーブルで麻子への手紙を書いた。

 静まりかえった部屋に柱時計の振り子の音が妙に高く聞こえる。少年の鼓動のようだ。鼓動は振り子よりずっと速かった。

 障子越し、隣の部屋で寝ている両親に聞こえるのではないかと思えるほど大きかった。

 考えてみれば少年が麻子を好きということは麻子も知っていることだったが、なぜ好きか、どういうところが好きかなど話した子ともなかった。

 面と向かって好きということなど思いもよらなかった。いやそもそも話らしい話などほとんどしたことがなかったのだ。

 生まれて初めてのラブレターだった。どんな風に書いたらいいのか少年にはわからなkった。

 結局思いのままに、学活でクラスをまとめ部活で二年生に掛け合っていた麻子に感動したと書いた。

 それを一言で表せる言葉を少年は探してみた。何も浮かんでこない。

 ふと「麻子」の「麻」とはどんな意味なんだろう、麻子の両親はどんな思いで「麻」の字をつけたんだろう、と少年は思った。

 辞書を引いた。

 あさ【麻】

 目的の字を探り当てた時、隣の寝室から両親の寝返りを打つ音がした。

 心臓が絞られ全身へキーンとした感覚が伝わっていく。動悸は早鐘のようだ。

 急いで教科書で手紙を隠した。

 母親が訝し気に少年に声をかけた。

「広ちゃん?」

「ん……」

「勉強?」

「ん……」

「早く寝なよ」

「ん……」

 母親はそのまま寝息を立て始めた。少年はしばらく息をひそめた。柱時計の音が響く。

 寝息を確かめると少年は教科書を脇へ置き、再び辞書を見た。

 あさ【麻】①タイマ・カラムシ・マニラ麻などの総称。

 タイマ? 麻薬のか?

 少年は納得のいかぬものを感じながら次へと目を移す。

 ②くわ科の一年生植物。茎がまっすぐに伸びて二メートルぐらいになる。

 少年の眼は「まっすぐに伸びて」に釘付けになった。これだ、と思った。麻子にぴったりだ。

 まっすぐに伸びて。

 少年は「麻」の字と真っ直ぐに伸びてを繰り返し読んだ。

 電話をしたいから番号を教えてと書き、そして最後、

 麻のようにまっすぐに伸びる君が好きだ。

 はっきり書いた。

 手紙では自分でも驚くほど大胆になれた。

 翌日、その大胆な手紙をどうやって麻子に渡すかが、少年にとっての大問題だった。

 実際の行動となるとまるで度胸がなかった。直接麻子には渡せなかった。

 結局麻子と同じ七組の山川に渡してもらった。彼は何も言わなかった。

 二三日してから山川から麻子の返事を渡された。

 麻子から直接渡してほしかったなと少年は思った。麻子も同じ気持ちだったかもしれないということには思い至らなかった。

 いずれにせよ、少年はうれしかった。

 麻子からもらうはじめての手紙だ。

 心が浮きたち、授業も部活も友達との会話もみんな上の空だった。

 家に帰ると少年は急いでトイレに駆け込んだ。安心して一人になれる場所はそこしかなかった。

 スヌーピーのイラスト入りの赤と白の封筒を開けた。胸が高鳴る。

 達筆というのではないが、伸び伸びとした文字が並んでいる。

 食い入るように少年は読み始めた。

 

 広延君、手紙ありがとう。ほんとうにうれしかったヨ。

 いろいろうわさがあって、私も最初は気にしてなかったんだけど、だんだん心配になって、圭子にあんなこと聞いてもらっちゃった。

 なんか恥ずかしいし、広延君に悪いし、

 ごめんなさい。

広延君は私のいいところ書いてくれたけど、私ってそんなに偉い人間じゃないんです。

この前も、お父さんが仕事で出張の時(お父さんは建設現場で働いていて、よく出張します)、お母さんは、からだが弱くてその時も病気で寝ていたから、私が夕飯の支度をしたんです。

 カレー作ったんだけど(レトルトじゃないよ)弟がまずいなんて言うから、 

 けんかになっちゃって、頭にきて弟に水かけちゃったんです。

 そしたら弟が泣き出して、なんだかとても自分が嫌で、弟もかわいそうで、でも結局

 私はあやまらないで口を利きませんでした。

でもね、「麻」がまっすぐ伸びる草ってわかって、いいなァって思ったし、そうなりたいと思いました。

 広延君のおかげです。ありがとう。

 これからもお互い、いろいろがんばろうネ。

 じゃ、またね。

PS、私の家の電話番号です。……

 電話楽しみに待ってます。

 少年は何度も何度もその手紙を読み返した。

 謙虚な子だなと思った。自分いいところを鼻にかけもしない。思っていたよりずっといい子だな、と思った。

 少年のことをどう思っているのかは書いていなかった。それでも「広延君のおかげです。ありがとう」という言葉で充分だった。

 何度も読むうち、麻子は両親の事情で弟や妹に夕飯を作ったりするのか、と少年は気づいた。

 すごいな、と思う。

 それに比べて自分はなんて甘ったれだろう。自分が恥ずかしかった。

 けれどもそれは自己嫌悪にはつながらなかった。

 麻子により一層惹かれる一方で、心の底から突き上げてくる喜びとともに、自分もしっかりしようと思うのだった。

 最後の「電話楽しみに待ってます」に勇気づけられ、トイレを飛び出すと、少年は財布を持って玄関に出た。

 湯気の立つ台所から母が、

「広ちゃん、どこ行くのォ、もうすぐご飯だよ」

 と呼んだ。「広ちゃん」と呼ばれることに少年は初めて恥ずかしさを覚え怒鳴った。

「広ちゃんなんて呼ぶなよ!」

 母は驚いた顔で少年を見た。テレビを観ていた父や兄や姉も少年の方を見た。

 困ったような母を見ると、少年の胸が抓られた。それを振り払うように、

「すぐ帰ってくるから」

 小さく言うと、少年は玄関を出、自転車に飛び乗った。 

 街は暮色だった。濃紺の空に浮かぶ墨絵のような富士を正面にして少年はしばらく自転車を走らせた。

 電話局のビルの暗がりに蛍光灯で白く浮かんだ電話ボックスを見つけた。車は走っていない。

 少年が自転車を停めようとすると、ヘッドライトが現れた。悪いことでもするように胸が圧迫され、少年はまた、自転車を走らせた。

 一区画を回り、また電話ボックスのところに来た。人通りはない。

 少年は自転車を停め、暗闇に紛れるように電話ボックスに入った。

 ムッとする匂いが鼻をつく。中の蛍光灯がやけに白んで見える。受話器を握る手が汗ばんでいる。

 十円玉を入れた。ツー。耳元で音がする。一回深呼吸した。

 麻子からもらった手紙を開いてダイヤルを回す。

 ルー。ルー。

 心臓が飛び出しそうだ。受話器を取る音がした。

「はい、清水です」

 麻子の声だった。

 こうして少年は月に二三度麻子に電話するようになった。

 学校では相変わらずほとんど口はきけなかったけれども。