午後のプラットホームは底冷えがした。空は厚い雲に覆われ富士も箱根連山も見えない。

 駅舎の向こうの商店街からは「ジングルベル」に合わせうるさいほどの宣伝アナウンスが聞こえてくる。

 少年にとってそれは、遠い世界の出来事のように思えた。

 見送りに来た幾人かの教師と十人ほどの制服達が、麻子の一家を取り囲んでいた。

 麻子は制服を着て、けれど私服の時のように、髪は束ねていなかった。

 小さな妹と弟は母親に寄り添っている。麻子は母親の隣に立ち、右手を母の腰辺りに置いていた。

 少年は皆のうしろにいて、その光景をただぼんやりと眺めていた。

 神社で麻子と話をして以来、少年は無力感の中にいた。無力感を引きずったまま、少年はそこに立っていた。

「アッコ、頑張ってね」

「元気でね」

 圭子と和子の声がした。その声は震えていた。麻子は思いの外澄んだ声ではっきり言った。

「圭子も和子も頑張って」

 その澄んだ響きが少年の心をカンと打った。

 麻子がいる。いつもの麻子がいる。

 夢から覚めた気がした。

 少年は一歩足を前へ踏み出そうとした。

 と、突然、駅から少し離れた踏切の警報機が鳴り始めた。

 麻子が乗る上り列車が近づいている。

 皆の顔に一瞬怯えた表情が浮かんだ。

 踏み出そうとした少年の脚が動かなくなった。

 警報機は鳴り続けている。

 麻子と話したい。麻子を励まさなければ。

 少年の心に焦りだけが募った。その時、

「広延、アッコに声かけて来いよ」

 真剣な調子で山川が言った。

「もう時間ないぜ、広延」

 高い声で西山が言った。

 少年は二人の顔をしばらく見つめた後、一歩足を踏み出した。山川と西山が軽く少年の背を押した。

 少年が前へ進むと、皆が道を開けた。

 少年は麻子の正面に立った。

 麻子は照れることなく自然に少年を迎え、母親に言った。

「お母さん、綿矢君。綿矢広延君」

 麻子の母は、しばらく少年を見つめてから、丁寧に頭を下げると、

「いつも麻子がお世話になりまして」

 と言った。

 少年は慌てて、

「そんな、こっちこそ」

 頭を下げた。母親の隣で弟がはしゃいで言った。

「公衆電話の男だ! こいつだったんだ!」

 妹はませた口ぶりで、

「この人がお姉ちゃんの恋人か」

 と感慨深げに言った。見送りの皆が笑った。少年は戸惑った。けれど、温かい皆の笑いが心に沁みた。

 麻子は微笑みながらほんのり頬を染め、少年をちらと見た後、母親の後ろから手を回し弟と妹の頭を軽く叩いた。

 また、皆が笑った。少年も笑った。麻子も笑った。母親も、弟と妹も笑った。

 ひやかすものは誰もいなかった。

 警報機の音に重なって、一定のリズムを刻む列車の音が聞こえてきた。

「清水さん、茨城行っても今迄みたいに元気で頑張って」

 と少年は言った。

「ありがとう。この前はごめんね。少しは元気になったから。大学ね、働きながらでも行けるんだって。先生の資格も取れるって。

 私、頑張るから。広延君も頑張って」

 麻子は明るかった。少年は心がぐっと開かれた気がした。

「よかった、ほんとよかった」

 列車がカーブを曲がって右手に姿を見せた。

「手紙書くから。ときどき電話もするから」

「私も。楽しみにしてる」

 列車はホームに入ってくると、一定のリズムを次第にゆっくりとさせ、止まった。

 空気音とともにドアが開き、人びとが降りていく。

 麻子たちは列車に乗ると、ドアの前に立った。皆がその前を囲む。

 ベルがホームに響いた。

 皆口々にがんばれ、元気でと言った。女の子たちは皆泣いている。

 麻子は皆の顔を見つめながら、下唇をかんで相槌を打っている。

 そんな麻子を少年は黙って見つめていた。

 心が震えてとまらなかた。

 突然ベルが鳴りやんだ。

 一瞬辺りを静寂が包む。

 もうすぐドアが閉まるのだ。

 その時、麻子の眉間が歪み、瞳から涙があふれ出した。少年の眼の麻子も揺れた。

 空気音とともにドアが閉まる。

 麻子はガラス越しに少年を見つめた。少年も麻子を見つめた。

 街の音も皆の声も消えた。麻子の瞳が少年の瞳に、少年の瞳が麻子の瞳になった気がした。

 列車が大きく揺れて動き始める。

 少年は列車に並んで歩を進めた。皆も同じだった。手を振りながら思い思いの言葉を叫んでいる。

 麻子も手を振っている。涙が後から後から麻子の頬を伝っていた。

 ホームにとまった少年の瞳からも涙がこぼれた。

 何かに引かれるように山の向こうに消えていく列車を見ながら、少年は心の中で繰り返し繰り返し、

 麻子。麻子。

 と叫んでいた。