今回はダロウェイ夫人の恐怖感として、さらに別の可能性を探り、その内実を私なりに特定していきます。

④憎しみの感情

 まだある。恐怖感の可能性が。

 憎しみの感情。

 朝、クラリッサは手袋屋の飾り窓の前で、レディであるかどうかは靴と手袋でわかるが口癖だったウィリアム伯父を思い出す。

 そこから手袋に夢中になった自分へ、そしてどちらにも関心がない一人娘エリザベスに意識は向かい、そして娘が心酔するミス・キルマンに思いは至る。

 不幸な生い立ちで同情は出来るが、気に入らない人々への態度は目に余る。そして思うのだ。

「……宗教にかぶれると(あるいはなにかの大義にかぶれると)心は無感覚になっていく。感情は鈍くなる。

実際、ミス・キルマンはロシア人のためには何だってする。オーストリア人のためには絶食してまで寄付もする。

でも、個人的につきあうにはまるでがまんできない人。」(丹治 p26)。

 それはキルマン自身というより、彼女がまとっているイメージから来ている。そしてクラリッサはそれを憎しみと呼ぶ。

 「心のなかでこの残忍な怪物」(丹治 p27)のうごめきを感じ、それが自身をほとんど肉体的に痛めつけるのを感じる。そして、

「たとえ美や友情に恵まれ、健康であること、人から愛されること、家庭を楽しいものにすることすべてにたいして満ち足りた感情をおぼえても、まるで怪物が根こそぎ掘りおこすかのように、憎しみというこの怪物は、すべてを揺すり、震わせ、ゆがめてしまうのだ!

満足であるためのそういった道具立ても、しょせんは自己愛にほかならないと言わんばかりに。

 くだらない! なんてくだらない!」(丹治 p27、28)。

 自分ではどうにもならな力をそこにクラリッサは感じている。無力感。だとすれば、これもまたクラリッサにとって恐怖の一つと言えるかもしれない。

 そしてそれは今の生活の虚飾を暴く存在でもあり、その意味でも恐怖と考えうる。

 たとえそれが花屋の店先の花々によって、店員のミス・ビムの存在によって押し流されるものだとしても。

⑤恋は恐怖か 

 そしてクラリッサの中でもう一つ怪物とみなされている感情がある。

 恋だ。

 自宅に着き、訪問したかつての恋人ピーターから、インドで出会った人妻に恋をしているときかされた時、「恋を?」とクラリッサは言い、そして、

「まだあの怪物の口に吸いこまれるなんて!」(丹治 p84)と心の内で呟く。

 しかし、この怪物は、恐怖ではない。逆だ。生の歓びの一つ、かけがえのないもの。

 ピーターが現れる直前、若い頃ブアトンで、突然現れたサリーに恋をしていた時のことを、彼女は鮮烈に思い出していた。

 サリーへの思い、彼女との出来事の中で、当時、クラリッサは「いま死ねば、このうえなく幸福だろう」(丹治 p66)とここでもシェークスピア、今度は『オテロ』の一節を思い浮かべさえしたのだった。

 それはセプティマスが抱いて死んだと考えた、生の喜びの最たるものの一つだった。

 だから、恋は恐怖ではない、と言いたいところだが、もう一つの恋がある。すでに述べたピーターの恋。

 小説半ば過ぎ、娘エリザベスと彼女が心酔する、クラリッサにとって憎しみの対象、ミス・キルマンの外出を見送った後、クラリッサは思う。

「恋愛も宗教もなんていやらしい、なんといとわしいものだろう!」(丹治 p225)と。

なぜなら、「恋愛と宗教は」「魂の独立を」「破壊する」(丹治 p226)からだ。

 魂の独立とは、ここで目にした、隣の老婦人、そこに感じるある種の厳粛さだ(隣の老婦人の存在に関してはこのあと触れる)。

 そしてまた彼女が、青年が守った大切なものの一つと考えていたものだ。

 恋愛と宗教は、その厳粛なものを壊してしまう。

 ここで言う宗教はキルマン、そして恋愛がピーターなのだ。では、クラリッサの恋とピーターの恋とではどこが違うのか。

 クラリッサは考えを続ける。

「恋愛だって」(宗教と同じく)「破壊する」「あらゆる素晴らしいもの、あらゆる真実なものが、そのために消えうせる。

そのいい例がピーター・ウォルシュだ。魅力があって頭がよくて、なんでもよく知っている。

……これまでわたしを助けてくれたのはピーターだし、たくさんの本を貸してくれたのもピーターだった。

でも、彼が好きになる女ときたら―― 下品でつまらない平凡な女ばかり。恋するピーター―― 何年ぶりかで訪ねてきてなにを話すのかと思ったら――自分のことばかり。ぞっとする情熱だ! 下劣な情熱!」(丹治 p226、227)。

 魅力的なピーターが、つまらない女にひっかかり、盲目となってしまう。

 嫉妬も入っている気はするが、その分客観性に欠ける気はするが、これが、ここでのクラリッサの想いである。

 裏を返せば、かつての自分のサリーとの関係はそうしたものではなかった。その一瞬のために死んでもいいと思えるほどの恋、生の歓びだった、とクラリッサは考えている。

 リチャードとの関係はどうだろう。

 彼のおかげで、クラリッサは、一瞬の歓びを味わっていられる。それが他人を捨て置き成功に胡坐をかいた恥辱の上でのことにしても。

 さらにクラリッサにはこんな思いもある。

 結婚には多少の自由が必要だ。お互いある程度独立していることが。リチャードとの間にはそれがある。が、

「ところがピーターときたらすべてを共有しなければ気が済まない。すべてを詮索しなければ。そんなこと耐えられない。だから……別れなければならなくなったのだ。」(丹治 p19)

 リチャードとでなら魂の独立を保っていられる。しかし、ピーターの恋愛は盲目的で独占的、相手の独立を脅かしてしまう。大切なもの、隣の老婦人に感じる魂の独立、厳粛さを破壊してしまうのだ。

 だから、同じ恋愛でもピーターのようなそれはクラリッサにとって憎しみの対象となる。

 ピーターの恋は、魂を壊すものとして述べられているが、クラリッサにとって、それは自身の感情ではない。ピーターとは距離を取ったし、リチャードとの関係は穏健なものだ。

 サリーとのことがあったが、それは彼女にとって、死んでもいいほどの喜びの経験で、魂を殺すものではなかった。

 恋愛は、クラリッサにとっては恐怖の対象ではない。

 では宗教への憎しみはどうか、もう一度考えてみよう。

⑥宗教と恋愛と老婦人

 宗教への憎しみは恐怖の内実となりえ、しかし恋愛は違う。そう考えてみた。

 しかし、実は、丹念に作品を読んでいくと、宗教への憎しみも、クラリッサがラスト近くで感じる恐怖の内容ではない、と考えられてくる。

 すでに述べた場面、エリザベスとキルマンを送り出した後、隣の老婦人を目にするところ。

「なんとなく敬意をおぼえる――あのおばあさんが見られているとは気づかずに窓の外をながめている姿に。その姿には何か厳粛なものがある

――でも恋愛と宗教はそれを破壊する。事もなげに、魂の独立を。それをあのいやらしいキルマンは破壊するのだ。

それにしてもこれは泣きたいほどに感動的な光景だわ。」(丹治 p226)

 宗教も恋愛も、隣の老婦人に感じられる厳粛さ、魂の独立を破壊するのだ。

 ビッグベンが鳴る中、その鐘の音に老婦人とのつながりを感じ、そこに厳粛さを見て、クラリッサは彼女を、神秘と感じ、また

「――こちらにひとつの部屋があり、向こうにもうひとつの部屋がある、ということが」「至高の神秘なのだ」(丹治 p228)、

と考える。

 魂の独立に厳粛さを見、神秘をも感じ、こちらにいる自分にもそれがあり、独立したもの同士が並びあっている点に、最高の神秘を感じる。

 そして思う。

「ほんとうに宗教はその謎を解いたのかしら? あるいは恋愛が?」(丹治 p228)。

 もちろん解けまい、それがクラリッサの考えだ。

 キルマンとピーターに対する老婦人の勝利。宗教と恋愛ではわからない魂の独立、厳粛さ、神秘がこの世界にはある。

 ここでは恋愛だけでなく、宗教も、それへの憎しみも、老婦人の存在によって、打ち負かされている。

 だから、恋愛はもちろん、宗教も、そこからくる憎しみも、ラスト近くクラリッサが青年の自殺の理由として恐怖を思い、自らのそれを考える時、その内実とはならないと考えることができる。

 そして実は、この老夫人の存在は、ここでも、ラスト近くでも、クラリッサに負の感情をもたらすものを、浄化する作用をもたらしている。

 ラスト近くのことは、あとで考えてみることにしよう。

⑦クラリッサの恐怖感の内実とそれらの関係

 こうして、私はクラリッサの恐怖の内実を、彼女の言葉、恐怖=圧倒的無力感をヒントに、三つ取り出すことができた。

 ①死

 ②老いと時の無常

 ③世間体と無

 では、クラリッサの恐怖感とは何か。

 結論から言えば、挙げてきた三つすべてが恐怖だととらえられる。すなわち、死、老いと時の無常、そして世間体と無、の三つである。クラリッサの中では、それら三つが恐怖として意識されている。

 そして肝心なことは、これら三つはクラリッサの中で分かちがたく結びついているということだ。

 では、クラリッサの中でそれら三つはどうつながっているか。

 死、老いと無常は、同種のいわば延長線上にあるものとして考えることができるだろう。

 老いの果てに死があり、老いと死をもたらす時は無常であり、逆にまた時は無常だからこそ人は老いそして死ぬ。

 だとすれば、この二つは、クラリッサの恐怖として、一体のものととらえることができる。

 では、世間体と無はどうか。世間体ばかり気にし、リチャードの庇護の下、自分は無であるという恐怖は、クラリッサの中でどう存在しているか。

 朝の買い物を済ませ、自宅に着いた時の一コマをもう一度見てみよう。

 ルーシーから渡されたメモは、レディ・ブルートンからのもの。夫リチャードと昼食を取りたいという内容だった。

「「もはや何も恐るるな」とクラリッサはつぶやいた。もはや恐るるな、太陽の灼熱も。」(丹治 p57)

 街の本屋で見たシェークスピアの一節を思い出している。これも恐怖。そして立ちすくみ、衝撃に震える。ではその内実は。

 嫉妬ではない。

「わたしが怖いのは時間そのもの。……一年また一年、わたしに割り当てられた寿命が細っていく。……若いころのように存在の色彩や刺激や音色を拡散させ、吸収する力は望むべくもない。」(p57)

 ここには端的に死と、老いそして無常への恐怖が現れている。

 そして思う。

「わたしの体と頭はもう役立たず。だって、とても楽しいというレディ・ブルートンの昼食会に、わたしは招かれなかった。」(p58)と。

 若さを失ったゆえに自分は世間的に見てなおさら無用になってしまった。

 人目を気にし、リチャードのおかげで成功を手に入、子供も産めなくなった自分は無だという意識に加え、死に向かう老いのためにより一層、自分は無になってしまった、昼食会に誘われないほどに。そうクラリッサは考えている。

 死に向かう老いは、自分の世間的な無に拍車をかけるものなのだ。

 この一件には、クラリッサのこれまで見てきた恐怖の三つが集約されている。死、老いと時の無常、世間体と無という。だからこそ彼女は震えるほどの衝撃を受けた。

 つまり、彼女の恐怖は、死、老いと無常、世間体と無が絡んだものだったのだ。

次回は、青年への共感について、考えていきます。そして、彼女の意識の特徴にも触れます。