今回は、クラリッサによる青年への共感について考え、それが分かりにくい点を確認し、のちの考察の対象としていきます。またその考察にあたって、彼女の意識の在り方を考えてみます。

6,クラリッサの青年への共感とそのわからなさ

 ここまでで、ダロウェイ夫人ことクラリッサの、青年の死の知らせを受けての思い、彼女にとっての大切なもの、恐怖感の内実を取り出すことができた。

 次に考えるべきは、青年への共感とは何か、とくにその知らせを受け、様々のことを思ったあと、窓辺に立った後の彼への共感がどういうものかという点である。

 ここまで考えてきた、クラリッサにとっての大切なものとしての生の一瞬の輝き、魂の独立は、そのまま青年が守った大切なものと彼女が考えたものでもある。

 つまりは、彼女は、彼女の側から一方的にではあるがではあるが、青年に共感している。

 だから、彼女にとっての大切なものは、彼にとっての大切なものでもあり、クラリッサはそう考えて、彼に共感している。

 しかしそれは独りよがりではないか

 当然、そうした批判はありうるだろう。ここには見過ごすことのできない大事な問題がある。後で考えよう。

 今は、彼女にとって大切なものを彼も大切だとしてそれを守って死んだ、という形の共感がまずあるということを確認しておこう。

 では、恐怖感は。クラリッサから青年への共感の内実となるだろうか。死、老いと時の無常、世間体と無は。

 死も老いも、それによって強く意識されている世間体と無も、青年のものでもあると共感してクラリッサが考えているかどうかはわからない。若い彼の恐怖とはなりにくいとも思える。

 そしてそうした恐怖感を思ったあと、クラリッサは、若い頃、生の一瞬の輝きに見せられて、窓辺に立ったことを思い出し、小部屋の窓辺に立ち、隣の老婦人を見る。

 そこから、彼女は、青年を憐れまないと考え、彼が自分に似ていると思い、彼が死んだことをうれしく思うとさえ言う。

 ここだ、わからないのは。

 大切なものをめぐる共感は、独りよがりだとしても、その内実はわかる。

 しかし、ここでの共感は、わからない。 

 だから次の課題は、これまで明らかにしたこと、生の一瞬の輝きと魂の独立という大切なもの、死、老いと時の無常、世間体と無という絡み合った恐怖感を踏まえ、ここでの共感、二番目の共感を明らかにすることになる。 

7、クラリッサの意識=メビウスの輪的な動き

 その点を考えるあたって指摘しておきたいことがある。 

 クラリッサの意識の、いわば、メビウスの輪的な動き方である。

 この点を踏まえないと、彼女の同じ対象への二転、三転する価値判断とでもいったものに振り回され、結局、彼女がどう考えているのかわからなくなる。

 この点を、すでにみた彼女の、生の歓びについてみることで、確認しておこう。

 クラリッサは、生のある瞬間に喜びを見出す。自然の、街の、人々の、ある一瞬に。

 そしてそれは現在では有力な保守系政治家リチャード・ダロウェイの妻としての位置、境遇に支えられている。

 だから、そのことに感謝しながらも、彼女は思う。それは成功を欲して手に入れた不幸と恥辱なのだと。そしてその上にこの歓喜がある。

 この意識のうねりというか、両義性といっては静止的すぎる、その動き方は独特だ。

 価値と思ったものが、そのままたどっていくといつの間にか、悪に替わっている。そしてまたたどっていくうちに、善きものに変貌してしまう。

 それはまるでメビウスの輪の上を動いているかのようだ。

  

8、私の体験から

 ところでこの点を考えていた時、ちょうど私にも似たような意識の動きがあった。クラリッサのそれを理解する助けとなるかもしれない。触れておく。

 サブスクのことだ。音楽配信サービスの。

 趣味の一つに音楽鑑賞がある。クラシックを中心に、時にロック、JPOPを聴く。

 にもかかわらず、ナクソス・ミュージック・ライブラリとスポティファイに登録したのは、2025年5月のことだった。それまではすべてCDを買っていた、中古を中心に。

 配信は音質が悪いと思い込んでいた。

 ところが試しにクラシック専門のナクソスに入ってみて、もともとPC入力も可能なアンプにつなげスピーカで流すと、CDと変わらない。

 SACDと比較すれば、ハイレゾではないから劣るだろうが、SACDをかける装置はない。まったく問題はなった。私のシステムと耳には。

 とすれば、あとはレパートリーだ。ナクソスにはSONY系のがなく、それでスポティファイものぞいてみた。

 豊富さに驚いた。ナクソスをほぼカヴァーしているうえ、SONY系も大概ある。

 しかし、音質はやや劣り、コマーシャルも入る。

 二か月月百円のキャンペーン期間にプレミアム会員になってみた。音質を最上位に上げ聴くと、やはりCDと遜色ない。

 スポティファイはほぼ全ジャンルをカヴァーするから、自分の部屋にいながらにして、一気に、ほぼすべての音楽がいつでも聴ける、そういう状態になった。

 ライナーノーツが読めないのが唯一の弱点と思っていたが、ナクソスなら、すべてではないにしろ、三分の二ほどは、画面上で読める。ジャケットはもちろんケースの裏面も見られる。

 本当に掛け値なしにほぼすべての音楽が手に入ったわけだった。

 ノート型のパソコンの画面を前にして、私は、何と形容していいのかわからない思いにしばらく呆然とした。

 そのことを、月一で通う床屋の主人に髪を切ってもらいながら話した。夫婦で美術館と映画巡りをする粋な同世代。

 画面を目にしてなんか不思議な気持だったと言うと、彼は、

「背徳感?」  

 そう返した。その時は何も言わなかった。違うとは思ったが、なにかがわからなかったから。

 帰って、思い返しているうち、言葉が現れた。

 虚無感。

 そう、月二つ合わせて三千円であらゆる音楽がほぼ手に入った。音も悪くない。

 その事態を前にしての一番の感慨は、充足感でも背徳感でもなく、虚無感だった

 店に通う、何度も、何件も。中古の掘り出し物を見つけて心ときめかす。意外な高値に躊躇う。ある時はあきらめ、ある時はえいやっと買う。あるいはこの名盤がこの安値で買えた、ウキウキと家に帰る。そして聴く。

 そしてまた通の店員との会話。指揮者を愛であったり、深いエピソードに胸をときめかせたり。

 そうしたことすべてがなくなった。にもかかわらず、音楽はほぼすべて手に入った。

 胸奥から力が抜けていくようだ。

 鉄骨だけが露な人のいない高層建築物の中に一人佇んでいる気がした。虚しさを胸に抱えて。

 ところがどうだ。音楽をかけ始めるや否や、私は、それを心から楽しんでいる。喜びに身をまかせる。

 しかも、例えばシュタインエッカー指揮古楽器によるマーラー9番の第一楽章、澄明な響きの中、第一ヴァイオリンのポルタメントに胸を抉られたあと、今度はヤングの新譜、同じくマーラー2番、ゆったりとした流れの「復活」をたった何度かクリックするだけで聴くことができる。

 私は楽しんでいる。今までと同じく。いや今まで以上に。嘘はない。

 虚無を感じるそのものから同時に喜びを感じている。

 それはクラリッサの、意識の流れと似ているのではないか。

 一瞬に喜びを感じ、しかし、それが夫との生活の上に成り立っていると知っていて不幸と恥辱にもつながり、しかしその喜びを思う、メビウスの輪に沿って動いていくようなその意識に。

9、クラリッサの意識=輻輳する時間、輻輳する意識

 そんなことを考えている時、「輻輳する時間」という考えに出会った。白石正明『ケアと編集』(岩波新書 2025)を読んでいて。先取りして言えば、ウルフが、人間の真実として描きたかった、意識の在り様とかかわるかもしれない。

 今迄の考察を踏まえてクラリッサの意識を追う前に、ここで考えておこう。彼女の意識を追う参考になるだろうから。

 この本の中で〈ケアをひらく〉シリーズの編集者白石氏は、編集した作家柴崎友香氏のエッセー『あらゆることは今起こる』に触れ、その帯のコピー「私の中には複数の時間が流れている」と言う柴崎氏の言葉を紹介して、次のように書く。

「実際は誰の体の中でも、時間は一本の線として過去から未来に一様に流れているわけではない。複数の時間が輻輳し、逆流し、合流している。」(白石 p159)

 輻輳とは辞書的意味では、様々な事態が集まってくる状態のことだ。車輪のスポーク=輻、が中央に集まる=輳、の意味という。

 誰の意識の中にも現在だけではなく、過去の様々な思い出が何かをきっかけに表れては消え、ある場合は自分を捉える、そんな現在とは違う幾つもの時間が流れている。

 意識は、輻輳する時間を持ち、その意味で輻輳する意識と言える。

 ウルフは、クラリッサを通じて、人間のこうした意識の在り様を捉えようとした。(石川 p15)

 今まで見てきたように大切なもの、恐怖感といったものは複数あって、それが、青年の死の知らせをきっかけに、クラリッサの今という時間の意識にまさに輻輳するのだ。

 では、メビウスの輪的な動きとこの輻輳する意識はどう関係するのだろうか

 輻輳する意識は、今述べたように、複数ある大切なものと恐怖感の具体的内容が捉えた時の意識の在り様であり、対して、メビウスの輪的な動きとは、そうした具体的な内容に伴って現れる正と負の価値判断の動きととらえることができるかもしれない。

 例えば、生の一瞬の輝きとしてのサリーとの思い出がクラリッサを捉える時、彼女は正の意識、ポジティヴな気分でいて、それがリチャードの庇護の下にあることを思う時、つまり自身の無を思う時、負の感情に支配される。

 具体的内容は輻輳して表われ、それに付随する感情の流れはメビウスの輪的に正から負へ負から正へと変転する、そんな風に動いていく。

 つまり、輻輳するのは意識を捉える具体的内容で、メビウスの輪的に動くのはそれに伴う正負の感情だということができる。

 それがクラリッサの意識なのかもしれない。いや、クラリッサにとどまらず、人間の意識なのかもしれない。

 この意識の特性を踏まえたうえで、クラリッサの大切なもの、恐怖感、青年への共感の全体を追っていってみよう。

 次回は、今回の考察を踏まえ、クラリッサの意識の動きを捉え、青年への共感の内実に迫ります。