今回は、青年の死の知らせを受け、死の理由として考えた彼女の恐怖感の内実を探っていきます。

5、クラリッサの恐怖感の内実とは(1)

 クラリッサの大切なもの、恐怖感、青年への共感、それは何か。あるいはなにゆえか。この文章は、それを追っているのだった。

 大切なものについては、自分なりの解答を得た。

 生の一瞬な輝きと魂の独立。

 では、次に、クラリッサの恐怖感の内実とは何か、どこからくるのかについて考えてみよう。

 ヒントは、同じくラスト近くにある。すでに見た部分。

「それから例の恐怖感がある(わたしは今朝も感じたばかりだ)、例の圧倒的な無力感が――」(丹治 p330)。

 大切なものを守って身を投げたと青年に共感した後、しかし、青年はその宝を抱いて飛んだのかとクラリッサは自問した。

 そして繊細な人間を抑圧する男権的で権威的な医師に脅かされたのではないかと疑ったあと、別の死の要因として恐怖感を上げた、その述懐部分。 

 恐怖感とは圧倒的な無力感であり、クラリッサはその日の朝もそれを感じている。

 朝、六月の一日を描くこの小説の、だから、冒頭に立ち返って見よう。

 ところがこれが意外と難渋する。

 幾つかあると思えて、しかし、どれも決定打とは読めない。私には。

 ①死

 まず死がある。

「……わたしが愛しているのは目の前にあるこれ、ここ、いま。……それなら、どうでもいいことではないか? 

 ……自分がいつかかならず跡形なく消え失せ、そのあともこのすべてがいままでどおりつづいていくとしても、どうでもいいことではないか?」(丹治 p22)

 死を思ってのクラリッサの述懐である。自分の愛するもの、大切なものの一つが、今この瞬間の具体的なあるものならば、死はどうでもいい、「これ、ここ、いま」が大事なのだから。 

 そう言いながら、実は心から愛する目の前の瞬間が死によって断たれる、経験できなくなることをクラリッサは恐れている。

 恐いからこそ、どうでもいいと自分に言い聞かせている。そして、それは人間にはどうすることもできないものだ。無力感。

 しかし、彼女は、直後自分に問う。

「別に腹立たしいことではない。

死はすべての終わりにちがいないが、にもかかわらず自分もピーターもなにかのかたちでこういったロンドンの街並みのなかに、諸物の干満に揺られながら、ここそこに生きつづけると信じられるならば、それはむしろ慰めになるのではないかしら?

 わたしたちがお互いのなかに生きる。」(丹治 p22)

 死してなお人は街に、他者の中に生きつづけると彼女は考える。

 そう考えることで、圧倒的な無力感から彼女は逃れられているとも読める。だとすると、死は恐怖ではないととらえることも可能だ。

 しかし、また、恐怖だからこそ、無力だからこそ、何かが残ると自分に言い聞かせているともとれる。

 事実、このあと、クラリッサは、書店の飾り窓に開かれた本のシェイクスピアの一節に目を留める。

 「もはや恐れるな、灼熱の太陽を、/はげしい冬の嵐を。」(丹治 p22)

 ここで言われる灼熱の太陽、はげしい冬の嵐とは、生きている限り襲ってくる困難の象徴だろう。

 と、死は、そうしたものからの解放、とクラリッサは考えている。そして、他のものと一体化でもある。

 しかし、だからこそ逆に、クラリッサは恐れているのだ。死を。死は解放だとか死によって他の中に生きつづけると考えざるを得ないほどに。

 恐怖感の一つの可能性、それは死だ。

 これを心にとどめて、先に進もう。

 死以外、クラリッサの恐怖として何がありうるか。

 

 ②老いと時の無常

 次に老いと時の無常。丹治氏が挙げているもの。

 この点も、すでに引用したラスト近くの述懐にも見られた。

 しかし、ここでは、やはり朝に戻って考えてみよう。

 クラリッサは朝にもその恐怖感を感じたと言っているのだから。

 恐怖感が、老いと時の無常に対するものだとしたら、朝にもこれを感じているはずだ。

「わたしが恐れるのは時間そのもの。

 ……年をおうごとに自分の人生の持ち分が薄く切りとられてゆき、わずかに残っている余白さえも、生活の色彩や刺激や雰囲気を、もう若いときのようには拡大したり吸収したりできなくなっていることを痛切に感じる。

若いときのわたしは、部屋に入ると、その部屋を自分の存在でみたしたものだった。」(丹治 p58、59)

 買い物を済ませ、屋敷に戻ったクラリッサの意識。レディ・ブルートンは、昼食に夫を招いたのにもかかわらず、自分を呼ばなかった。そのことにショックを受けたあとの述懐だ。

 読まれる通り、確かに彼女は、老いを、時の無常を恐れている。

 そして、

「……突然、自分が老いてしなびて、胸のふくらみをなくしてしまったと感じ」(丹治 p59)る。

「レイディ・ブルートンは、並はずれて面白いという評判の彼女の昼食会にわたしを招待してくれなかった」(丹治 p60)。

 老いによって自分が役立たず、すなわち無力になったことを彼女は嘆いている。つまり、老いと時の無常は、無力感と繋がっている。

 だから、夜、パーティーで一人になって、朝方感じたという無力感としての恐怖感は、老いと時の無常と考えることもできる。

 さらに、この思いにとらわれた時、

「「もはや恐れるな」とクラリッサは言った。もはや恐れるな、灼熱の太陽を、と。」(丹治 p58)。

 シェイクスピアのこの一節を彼女は自身に言う。街の本屋で見かけたものだ。あの時は、死を思ったあとの言葉だった。

 死んでも自然や街や他者の中で生きるづけられる、だから、死は安息、つまり先には安息が待っている、だから、灼熱の太陽に象徴される生の苦しみを恐れるなということだった。

 そしてそれは実は、死を恐れているからこそ、死は、苦しみからの解放であり、他と一体となるものと自分に言い聞かせ、だから死は安息だと納得しようとしていたことの表われだった。

 本当は死を恐れている。

 ということはここでは、クラリッサが老いて役立たずになったこととそれをもたらした時の無常をも恐れていることを意味するだろう。

 老いと時の無常に対し無力感を覚えるから、つまり恐怖感があるからこそ、もはや恐れるな、灼熱の太陽をと自分に言った。

 灼熱の太陽がここでは老いと時の無常である。

 と、やはり、丹治氏の解釈は的を射ている、ということになる。

 そう、それは認めている。しかし、それだけでは言い尽くせないものがある。そういう気がする、それが問題だった。

 それは何か。すでに見たようにその一つは死だった。しかし、まだあると思える。

 さらに朝のクラリッサをたどってみよう。

 

③世間体と無

 朝、死について考えた後、本屋の前でさらにクラリッサは考える。

 自分に嫌気がさす。夫も他の人も何かをそのことのためにする。わたしもそうありたい。

 

「それなのに、……自分はたいてい、人にこう思われたいとかああ思われたいとか、まず考える。

全くばかげたことだとはわかっている。……そんなこと、誰だって見抜いてしまうのだから」(丹治 p23、24)

 彼女は世間体ばかりを気にする自分を嫌悪している。そして、人生をやり直せたら、外見だって変えられたら、と考え、レディ・ベクスバラみたいになりたいと思った後、

「……このわたしがまとっているこの肉体は、いろいろな能力を持っているのに、無、まったくの無としか思えない。

自分の肉体が透明で、誰にも見えず、誰にも見られないという変な感覚。

もう結婚することも、子どもを産むこともない肉体。

……ミセス・ダロウェイというこの存在。すでにクラリッサですらない。ミセス・リチャード・ダロウェイというだけの存在。」(丹治 P24、25)

 年を取った妻としての自分をクラリッサは無と感じている、少なくともそう感じる時がある。

 かつて恋人だったピーター、この小説で、クラリッサ、青年ことセプティマスと並んで、クラリッサの今と過去に重要な役を演じる彼からの言葉とその時の反応は、彼女のこの気持ちを考えるのに参考になる。

「世界の情勢、ワーグナーにポープ」に関心を持ち、「いつだって人の性格を批評する」ピーターからかつて厳しく「魂の欠陥を指弾」され口論になったことがある。

「あなたはいつか総理大臣と結婚し、階段のいちばん上に立って、お客を迎えるだろうね、なんて。

わたしを完全無欠の女主人と呼んだりもした。(……口惜しくてベッドのなかで泣いた)」クラリッサだった。

 それがどうだ。自分はまさにそういう人間になってしまっている。

 総理大臣ではないものの大物政治家リチャードの妻となり、お飾りのような生を生きている。

 自分を無と感じる彼女の思いは、その分だけ、痛烈に違いない。

 この感覚は無力感につながるとは言えないだろうか。

 もしそうとれるなら、自分を無と感じることもまた彼女の恐怖のひとつとみなすことができる。圧倒的な無力感をクラリッサは恐怖と言っていたのだから。

 そしてそれが世間体ばかり気にする自分ともつながっているのなら、世間的にはリチャードの妻、だから自分は何もないということでもあるなら、世間体もまた恐怖の一内容と取れなくはないだろう。

次回、第五回は、さらに別の恐怖感の内実を考えていきます。お楽しみに。