6、二人の存在の作品上の意味
前節までで私は、セプティマスとレイツィアの最後の場面に熱いものがこみ上げ視界を揺らしたその理由を考えてきた。
それを受けてここからは、二人の存在の作品にとっての意味を考えていきたいと思う。
すでに述べたように、作者は、始めは、クラリッサを死に向かわせるつもりだった。が、彼女の分身としてセプティマスを造形した。おそらく彼の登場が、レイツィアをも連れてきたのだろう。
二人の出現は、ではどんな風に作品に影響したか。
⑴社会的厚み
二人によって、作品には、社会性というか、社会的厚みが加わった。
①戦争
まずは戦争の影である。
セプティマスは戦地に赴き、最愛の人エヴァンズに出会い、そしてその戦死に立ち会って、自己防衛から感覚を喪失してしまう。そのことが彼にとっての最大の恐怖となり、精神の均衡を崩し、レイツィアとの関係も結べなくさせた。生の一瞬の歓びと心の交流を奪われたのだ。魂の独立だけは持ち続けていたとしても、それも、感覚を失った超感覚の世界との異常を含んだものだった。
その影響でレイツィアは、最愛の人セプティマスとの交流を奪われ、自殺すると呟く彼から死の恐怖を覚え、世間の目を恐れざるを得なかった。
戦争が、どれだけ人を傷つけるか。そのことを二人の存在が、まざまざと、見せつけてくれる。
それらはクラリッサが知りえないことだ。彼女にとって戦争の被害は、知り合いのミセスたちの息子の戦死、最初のロンドン散策で思う、そのことが最大のものだといっていいだろう。彼女は戦争を嫌い、その爪痕に十分な共感を示すが、その境遇から具体的にそれらを知ることは出来ない。
二人の存在によって、この小説は、六月のロンドンの一日を描きながら、戦争の傷跡を生々しく告発するものともなっている。
②階層
セプティマスは、将来を嘱望されているとはいえ、一介のサラリーマン、レイツィアは帽子づくりを内職とする専業主婦、決して裕福とは言えない。下層階級とは言わないが、富裕層でないのは明らかだ。大臣の妻であるクラリッサとは階層が違う。そうした位置にいるからこそ、戦争の影響をもろに受け、病に陥っても、ゆっくりと例えばパーティーをも催す余裕はない。そのことが、また二人を追い詰めてもいるのだろう。
彼らがいることで、ロンドンの一日の風景が、具体的で一回的な人物を通して、さまざまな階層から社会的厚みを持って描かれることになる。(p55)(p37)
クラリッサ、そして同じ階層の人間の視点だけでは、決して描きえない光景がここにはある。
⑵人間的厚み
そうしたいわば厚みは、社会的なことにとどまらない。人間的な面でも、この二人の登場で、人間の様々な様相が描かれる。
①人間性という名の権威
セプティマスは、医師ホームズを人間性と呼び、嫌っていた。この場合の人間性とは、勿論誉め言葉ではなく、正常で自立した白人男性を意味し、いわゆる弱者には権威を持って上から命令を下してくる、そういう存在のことだ。その点はホームズに限ったことではない。ブラドショーも同じ、いや、権威性はより強いだろう。その力が、二人を引き離そうとし、彼を投身にまで至らしめた。作者もまた怒っていて、だからこそ、クラリッサは投身の話から、抑圧によるではないかと心配するし、そうした権威に守られて死を遠ざけている自分を不幸、恥辱と感じもする。
こうして二人の存在は、社会的階層とも絡んで、人間性といった正義の名のもとに他の人間を抑圧する、そうした人間の側面を露にする役割をも果たしている。
②普遍性
魂の独立、心の交流、生の一瞬の輝きは、クラリッサにとってだけでなく、セプティマスとレイツィアにとってもいかに大切なものか、そのことを示すことによって、それら三つのことが、人間にとっていかに大切かを、この小説は示すことに成功している。
特に、それらを奪われていた二人が、魂の独立からあと二つをも獲得する場面は、涙を誘い、三つのものの大切さを読者に感情でわからせる。クラリッサだけでは、そこまでは至らなかったかもしれず、さらに、富裕層の贅沢とも捉えられかねず、人間一般にとって大切なものとまでは伝わらなかったかもしれない。
二人の存在は、彼らにとって大切なものが、人間にとって普遍であることを示すことに貢献している。
③恋愛
さらに恋愛のことがある。クラリッサにとって、その瞬間死んでもいいと思えるほどの恋は、若い頃ブアトンで同性のサリーに対してのものだった。
セプティマスが心の底から愛したのも彼の同性、軍隊で知り合ったエヴァンズだった。
すでに述べたように、この恋愛を扱うにあたって作者は、エクスキューズしたり、但し書きを入れたり、そうしたことを一切していない。彼らにとっての一番の恋愛として、その記憶として、描写していくだけだ。
彼らの一番の恋が、それぞれの同性へのものであること、それを淡々と描くことで、この作品は、そのことへの偏見から全く自由になっている。
というより、偏見から自由だから、淡々と描けたのかもしれない。
どちらか、それはわからない。
いずれにしても女性だけでなく男性のこととしても描くことで、やはり普遍にまで高められている。
クラリッサだけでなくセプティマスが登場することでの大きな作品への貢献だろう。
④ケア
他者に寄り添い、その自己実現のために援助をしていく、そうしたケアの精神、とでもいったものの重要性を示すのも、二人、とくにレイツィアがいてこそのことだ。
作品の全編にわたって、そうしたケアの精神は垣間見られる。そう思えるのは、おそらく、クラリッサの意識の流れ、その想像力豊かな他者への思いによるのだろう。特に青年の自殺を聞いた後、彼への想像を働かせての共感は、彼女の彼へのケアの精神を感じさせる。その繊細な優しさが読者の胸を柔らかくさせる。
しかし、この作品で、誰より、他者への献身に生きているのはレイツィア、セプティマスへのその姿勢だ。心が通わず不安と孤独の中でも彼女は彼を見捨てない。
そして、医師の横暴への反発によって二人が魂の独立をかち得、心の交流を持った時の彼女の喜びようは涙を誘う。その点はすでに見た。そしてそこでも触れたが、その交流から、彼女の彼への思いは一気にあふれ出し、以前の彼を思い出し、彼は私の力になってくれた、今度は私が力になる番だ、誰も私たちを引き離せない、そう彼女は決意もしたのだった。
クラリッサにあった想像力、レイツィアがとりもどした共感力、ケアにつながるそれらが、さらなる行動となって力強くあふれだすだろうことを読者は感じる。だからこそそれを不可能にしたセプティマスの投身は胸を締め付け、それをもたらした医師たちには怒りを覚えもするのだろう。
いずれにしても、二人、特にレイツィアがいてこそ、ケアの精神は、主観にとどまらない、行動として、その予感として作品に刻まれることになる。
⑤隣の老婦人(老人)
セプティマスとレイツィア、この二人の存在は、さらに、クラリッサが見る隣の老婦人、一般化すれば高齢者の作品上での意味を解き明かしてくれる。
クラリッサにとっての隣の老婦人は、一度目の登場で魂の独立を、二度目の登場で死の他への拡散を確信させる存在だった。
しかし、隣の老婦人が、なぜクラリッサにそうした思いを抱かせるのか、その点は、わからなかった。今後の課題だった。
二人の存在は、そのことへの一つの解答を示唆してくれる。
まず、老婦人、一般化すれば高齢者は、クラリッサの隣人の彼女だけではない、その点を確認しよう。
クラリッサにとっては、隣人以外、二人いる。ミセス・フォクスクロフト、レイディ・べクスバラ。彼女たちは(p331)第一次大戦で息子を亡くした。それでも必死で生きている。戦争の傷跡。それを思いながらも、クラリッサは、戦争の終結を喜ぶ(p14)。
高齢者とまでは言えないかもしれない。が、彼女たちがクラリッサの望む成功を手にした者であり、少なくとも人生の先輩だとは言えるだろう。彼女たちは、クラリッサに戦争の傷跡を感じさせ、恥辱と幸福をもたらす成功を象徴する存在なのだ。
このようにクラリッサにとって、高齢者たち、あるいは先輩は、人生や社会の断面を見せ目標を見せる存在だった。その点を確認して次に進もう。
何より驚くべきことがある。クラリッサにとどまらず、この二人、セプティマスとレイツィアにも肝心なところで高齢者の存在があるのだ。
まず、セプティマス。
レイツィアとの心の交流に幸福を感じていた時、言いかえればそこに生の一瞬の輝きを感じていた時、ホームズ医師がやってくる。つかまる、そう考えて彼は自殺を考えるが、一方、
「ぼくは死にたくない。人生はいいものだ。太陽が熱い。ただ人間というのは――いったいやつらはなにがほしいというんだろう?」(p265)。
そう考えた彼は、ホームズがドアに接近したことを感じ身を投げる。
その直前、上の引用の直後、こうあるのだ。
「向かいの階段をおりていく老人が足を止めて、こっちを見つめている」(p265)。
死の直前、セプティマスは老人が見つめていることに気づくのだ。老人、原文ではold manとあるから、男性だろう。
そして投身。
クラリッサの時と違って、セプティマスが老人を見てどう思ったかは書かれていない。書かれていないというより、彼は何も思わなかっただろう。投身決行の直前、そんな余裕はなかっただろう。
しかし、だとしても、隣家の老人が彼を見ていることに彼は気づいた。ここに彼がクラリッサの分身でもある点を重ねるなら、本人は何も思っていなくても、読者は、クラリッサが隣の老婦人から感じ、考えたことをここに投影したくなっても不思議はないだろう。老婦人にクラリッサが読み取っていた、魂の独立と他への拡散としての死を。
ここでの老人の存在は、その投影を可能にし、さらに言えば誘導する人物として登場するのではないか。
そう考えることが許されるのなら、読者にとって、セプティマスの死は、クラリッサが考えたように、魂の独立を守り、他へと拡散する死に向かってのものだと考えられ、交流と生の輝きを感じた直後であることの無念さは、少しでも軽減され、少しでも救われる。
向かいの老人の存在は、セプティマスは気づかなくても、読者にとっては救いとなる。作者の意図もそこにあったのではないか。
私にはそう思える。
そして、セプティマスに関してここでもう一つ付け加えたいことがある。
ではレイツィアはどうなるのかということだ。レイツィアの思いについてはこのあと考えたい。セプティマスは彼女のことをどう考えていたのかということだ。
彼の言葉を聞いてみよう。
「ブルームズベリの下宿屋の大きな窓。その窓をあけて飛びおりるなんて、面倒で厄介でいかにもメロドラマチックな行動だ――あいつら(ホームズとブラッドショー――引用者)にすれば悲劇なのだろうが、ぼくとレイツィアにとってはそうじゃない(彼女はぼくの味方だから)」(p265)。
彼はレイツィアのことを考えている。少なくとも意識にのぼらせている。魂の独立を重んじつつ、直前の彼女との交流に生の喜びを感じていた彼にとっては当然かもしれない。
しかし、彼女は味方だからというのは独りよがりではないか。彼女を自分の保護者のようにしか、母親のようにしか思わない、甘えた幼い考えではないか。感覚を失った恐怖から彼女を求めた本質が出ただけではないか。そうかもしれない。
しかし、この直前まで彼は、感覚のないことに絶望し、恐怖し、すでにないエヴァンズの姿を見、感覚のなさゆえに超感覚の世界に飛んでいた。病だった。ほんの少し前、ようやく正気に戻ったのだ。レイツィアのことを考えただけでもよしとしよう。彼は彼女のことを考えているし、わかってくれると思っている。
その点は心にとどめておきたい。私はそう思う。
次にレイツィア。
彼女にとっての老人とはでは誰か。
ミセス・フィルマーだ。二人が住む部屋の大家、セプティマスの投身に駆け付けた。
見ないようにレイツィアに言い、エプロンで仰いでやり、呆然として「あの人は死んじゃったの」と問う彼女に、その言葉を一笑に付して応える。「そんな、そんなことはありません!だっていまどこかの病院へ運ぼうとしているところですから」(p267)。
その時、レイツィアの眼にはそれが誰だかわからない。こう書かれている。
「律儀そうな淡青の目でドアをじっと見つめたまま自分を看護してくれている老婦人」(p267)と。
老婦人! クラリッサの眼にする隣人と同じ。
老婦人である彼女は、応えた後、思うのだ。
「彼女には話しておくべきじゃないのかしら? 夫婦は一緒にいるべきだから、……」(p267)。
レイツィアにとっての老婦人、ミセス・フィルマーは、心内でとはいえ、レイツィアにとって最も大切なこと、二人の心の交流を保つことを、そのことでの生の輝きを持ち続けることを、支持している。クラリッサにとっての老婦人が、クラリッサに魂の独立と死による他への拡散を気付かせたように。
考えてみれば、レイツィアとセプティマスの、交流、生の輝きをもたらしたのは、このミセス・フィルマーの娘、結婚したばかりのミセス・ピーターズの帽子をレイツィアが仕上げている時だった。老婦人ことミセス・フィルマーはこの場面以降、レイツィアに心の交流と生の輝きをもたらすきっかけとなり、それを支持し続けている。
ただし作者はミセス・フィルマーを偶像視したりはしない。夫婦は一緒にいるべきと思った直後、彼女は考える。「だけどお医者様の言うとおりにしないと」(p267)。庶民の知恵と偏見と。作者は、リアルに人間を捉えている。
こうしてセプティマスとレイツィアの存在は、それぞれの老婦人、あるいは老人を作品に登場させ、クラリッサも含めた三人に、読者のそれを含めてそれぞれに気づきを与える。
そのことで老人の存在は、単なる偶然から、必然に近い存在となる。
では、その必然とは何か。それについては、次節で考えようと思う。