体育館の重い鉄扉を開けると、冷えた空気が頬を打った。

「寒いな」

 少年の言葉は微かに白い息となる。十一月中旬のこの時刻、体育館にはまだ陽が差していない。

 山川と西山と少年の朝練はずっと続いていた。軽く準備運動をしたあと、いつものようにパスから始めた。

 足元で靴が鳴る。小動物の悲鳴のようだ。

 この二か月で三人のパスやレシーブは随分とうまくなっていた。あとはフライングレシーブさえできるようになれば。

 軽いパスを終えた後、一人がボールを遠くへ投げ、もう一人がそれを追いかけてフライングレシーブに挑み、残りの一人は球拾いといういつもの練習にとりかかった。

 少年の番。山川が遠くへボールを投げる。いつもあと一歩のところで、ボールは床に落ちる。

「この一本で交代な」

 山川が言った。ボールが遠くへ投げられる。

 少年はボールを見つめながらその方向へ全力で走り始める。

 キュキュキュキュ。

 速度を増すシューズの音が体育館に響く。

 ボールが放物線の頂点を極めた時、突然朝日が差し込み、ボールの片側が白く輝く。

 今度はうまくいく。

 予感が少年の中を走った。さらに速度を上げ、ボールの落下点めがけ疾走する。

 その三メートル手前で、少年は加速のついたからだを思い切って投げ出す。精一杯伸ばした右手の甲にずしんと感触があった。

「やった!」

 山川と西川が同時に言った。

 うつぶせのまま顔を上げ後ろを見ると、鉄骨を見せる天井を背景に白いボールがゆっくりと弧を描いて中空に浮かんでいた。

「広延、出来たぞ、拾えたぞ」

 西山が甲高く叫んだ。

 とうとう、できた。

 少年の心に熱いものが充ちた。

 麻子へと近づいた気がした。

 少年はからだを半分おこし、体育館の隅へ転がっていく白いボールを見ていた。

 汗が一筋こめかみを流れた。 

   

 石油ストーブが燃えていた。教室の外へと煤を送り出す長い煙突が時折カンカンと鳴る。

 午前中から重そうな黒い雲がどんよりと垂れこめていた。

 午後の英語の時間、窓際の誰かが、

「あ!」

 声をたてた。少年は驚いてそちらを見た。

 窓の向こうのブロック塀を背景に、雪が舞っていた。

 雪はそれまで沈鬱だった教室の空気を一変させた。みんなの気持ちが華やいでいく。

 普段は恐く熊のような顔の英語教師も、

「お、雪か。冷えるわけだな」

 ほっとしたように言った。

 その日の授業が終わる頃には、雪は激しさを増し窓の向こうの木造トイレの赤いトタン屋根をうっすらと白く染めた。

 窓から見える世界が清められていくようだった。

 その日部活はなかった。

 そのせいか、放課後になってもクラスの何人かが教室に残っていた。

 日直の計らいでストーブもつけられたままだった。

 少年はストーブに当たりながら、山川と話をしていた。

 山川がトイレに行き、少年一人がストーブに当たっている時だった。麻子と仲のいいそばかす顔の青木圭子が少年のところにやってきて言った。

「広延君、アッコの好きな人教えてあげようか」

 ドキリとした。聞きたかった。でも聞かないほうがいいかもしれない。麻子が他の奴を好きだったらどうしよう。

 その名前を聞いた時の落胆がもう少年の心を覆い重くし始めた。それでもやはり聞きたかった。頬が火照っていた。

「誰」

 圭子は黙っていた。ストーブのせいか彼女の頬もほんのりと赤かった。

 しばらくすると、圭子は右手を自分の胸の辺りに持っていき、少年に向けて人差し指を立てた。

「え」

 圭子は黙っている。

「俺?」

 彼女は軽く頷いた。

 少年の胸は解け始め、奥の方から華やいだものが広がっていく。心の内で少年は叫んだ。

 麻子も俺が好きなんだ! 両想いなんだ!

 その時、ストーブのそばの薄緑色のドアが開いて、麻子が教室に入ってきた。

 彼女は教室に入ると立ち止まり少年と圭子を見た。

 何が話されていたのかすぐにわかったようだった。

 くっきりとした二重の目を上目遣いにして少年をしばらく見つめた。少年も麻子を見つめた。

 麻子の頬は見る見るうちに赤くなり、下を向くと二つに縛った長い髪を揺らして足早に自分の席へ行ってしまった。

 幸福としか言い様のない感情が少年を包んだ。

 少年は麻子の後姿を見つめていた。

 トイレから山川が帰ってきて、ボーとしている少年に気づくと、

「何アッコに見とれてんだよ」

 少年の胸の辺りを軽く叩いた。

 下校の時刻を知らせる校内放送が流れた。

 下駄箱に麻子がいた。少年の胸に甘い気持ちが広がっていく。母親らしい人が傘を持って彼女を迎えに来ていた。

 少年と山川は下駄箱を出ると左に向かった。麻子達は右手へと帰っていった。

 雪が激しく降っていた。前を行く制服達が白くかすんでいた。少年は振り返った。

 校舎と校舎の狭い空間に雪が後から後から振り積んでいた。

 母親に傘をさしてもらって帰っていく麻子の後姿が見えた。二つに分けた長い髪が揺れている。

 胸に温かいものが充ちてくる。山川が、

「寒いなぁ」

 と言った。

「そうかぁ」

 清められていく世界の中で、少年は少しも寒くなかった。