7、現代への意味
クラリッサの分身としてのセプティマス、彼のパートナーとしてのレイツィアの登場が、作品にもたらしたものを考えてきた。
次に、そこから生じる、作品の現代への意味を考えてみたい。
⑴社会性
セプティマスとレイツィアの登場によって作品が社会的な厚みを持つ点はすでに見た。戦争の傷、階層性。
このことは現代に直結する広がりと深さを作品がもつことを可能にしている。ヨーロッパで、中東で、一時的にせよ南米で、戦争の続く今、戦地での経験で感覚を失ったセプティマスとそのことによって恐怖に苛まれるレイツィアの形象は、現代への痛切な批判となるだろう。
階層による格差についても同じことが言える。新自由主義の下で格差が広がり続けている今、階層差による戦争の傷の違い、経済的に恵まれない側により多くの爪跡を残すことを作品は捉えて、現代を告発する。
⑵人間的厚み
①権威による抑圧
医師という名の権威、それによる抑圧、その点の告発は、きわめて鋭い。作者が精神的病を抱えていたからこそかもしれない。
そして権威による抑圧を「人間性」とセプティマスに呼ばせていることは、現代を先取りした視点といえる。20世紀後半の思想は、「人間性」という美辞麗句が実は、自立した健常な白人男性だけを指し、依存的で病や障害を持つ白人以外や女性、子どもを抑圧することを告発してきた。
このことの先駆がセプティマスの言う「人間性」にはある。五十年以上時代を先取りして、現代にまで光を投げかける。
②生の輝き
魂の独立、心の交流、生の一瞬の輝きというクラリッサにとって大切なものが、セプティマスとレイツィアにとても同じであることを示して、それらが人間にとって普遍的に重要であることを作品は示したが、それはそのまま現代への熱いメッセージとなっている。
勿論それは、①で見た人間性とは似て非なるものだ。この場合の人間とは、自立した健常な白人男性だけを指すのではない。
どんな人間であれ、魂の独立は重要であり、人との交流を楽しみながら生の一瞬の輝きを享受することが生の意味の大きなものの一つであり、それを保証しうる社会、制度、関係こそが求められていることを、作品は現代に示唆する。
③恋愛
この点、現代に向けての作品の先見性は明らかだろう。
LGBTQ+のことがとりだたされる現代、淡々とした当たり前のこととしての同性への恋愛の描写は、21世紀が古びて見えるほどだ。それほどに作者はそのことを当然のこととして扱っている。
自身の経験の影響はあっただろう。
しかし、何よりそれを可能にしているのは、原理や原則から人間を見るのではなく、そしてそこから個々の人間を矯正しようとするのではなく、人間の具体から物を見、「今、ここ、これ」から出発し、大胆にしかし淡々と個を優先していく、作者のそうした姿勢だろう。単に思想ではない。頭だけではない。生き方まで貫くあり方。
恋愛に関することだけではない。すでに見た「人間性」に対する批判もまた、セプティマス、レイツィア個人から出発して可能になったものだった。
恋愛への見方はもとより人間の見方として、その姿勢ごと、現代が学ぶことは多い。
④ケア
クラリッサの想像力、レイツィアの共感力と行動力が、作品にケアの精神を刻んだことはすでに触れた。
新自由主義と排外主義が吹き荒れる現代世界に、この精神が慰めと可能性をもたらすことは論をまたない。
さらに、「人間性」への批判とケアの精神の描写は、現代の、正義の倫理からケアの倫理への転換の主張に呼応し、その主張に説得力をもたせるだろう。
正義の倫理とはなにか。自立した人間としての個人がもつ自由と平等を掲げる近代の倫理、医師たちが具現化している倫理である。
しかしそこにはかけているものがある。ここでいわれる自立した人間とは、実は、健常な自律した白人男性に過ぎず、だから、病で他律的な白人男性以外は排除されている。具体的には、病人、子ども、老人、白人以外、女性は含まれない。
だからこそ、セプティマスは、正義を振りかざす医師たちを「人間性」と呼んで、自分たちの方へ改宗させ社会の均衡を保とうとするとするその抑圧を憎み、それに反発したし、レイツィアもまた治療の名の下に二人を引き離そうとする医師を嫌った。そこには真の意味の個はなくだからケアもない。
ケアの倫理はちがう。
どんな人間にもケアを必要とする時期がある。子どもの時期、老いてから。それだけではない。成人として自立しているように見えても、何らかのものに助けられていない人間はいない。身近な人間関係、社会の制度、などなど。誰もが、どんな時期でもケアを受けている。
そこから出発して、つまり人間を依存する存在、ケアを必要とする存在ととらえ、そこから出発して人間関係を、社会を構想していく。
そのことへの後押しがこの作品にはある。
⑤老人
三人の前に現れる老人が、大きな意味を持つことはすでに見た。クラリッサにとって隣の老婦人は、魂の独立と他へ拡散する死を気づかせる存在であり、セプティマスにとって向かいの老人は彼の意識にのぼったかはわからないが、読者にとっては彼の魂の独立を見届け、拡散する死という慰撫をもたらす人間であり、クラリッサにとってミセス・フィルマーは、セプティマスとの心の交流、生の一瞬の輝き、をもたらすきっかけを作った人だった。三人それぞれに別の老人がいることで、老人はただの偶然の存在から、必然に変わる。そうみえてくるのだった。
では、そこにもたらされる必然とは何か。
老人、年長者が斜めの存在として、彼ら三人にかかわるということだ。
上からの権威ではない。かといって、横並びの傷のなめあいでもない。押し付けはしないが同じ平面ではない斜めの位置から魂の独立を見届ける、そんな存在として老人は現れる。
この視点はまさに今である(註1)。
作品の現代への光はここでも鋭く発揮されている。
(註1)松本卓也『斜め論』(筑摩書房2025)
⑶共感
この文章も最後となった。
途中触れながら今まで考えてこなかったことがある。青年(セプティマス)の死を知ったあとのクラリッサの意識の中、最後に訪れる青年への共感に関することだ。
本論では、ここまで、セプティマスはクラリッサを知らない、だから、彼からの彼女への共感は起こりえないとして、老人のところで少し触れた以外充分には考えてこなかった。
それはその通りだ。
しかし、読者は違う。地獄から天国、そしてまた地獄への涙を伴う感情の起伏を経験し、医師たちを許せないと思い、セプティマスとレイツィアをかわいそうに思う、そうした読者にとって、クラリッサの、青年の思いや境遇を想像しての意識の流れは、それ自体がすでに、心慰められることだ。懐かしい友を偲ぶことに似て。
が、それだけではない。クラリッサの青年への共感、二度目のそれにはもっと重大な意味がある。
二度目の共感の内実とは何だったか。
人は死ぬことで、他へと拡散していく。知人に対してはその意識に残る。さらに他の人間、木々や家々、あらゆる存在に対しても、死によって、人はそれらと一体になることができる。
以前からそう考えることがあったクラリッサが、隣の老婦人の姿を仲介にして、その思いを確信する。そこから青年への二度目の共感が生じた。彼女自身戸惑いながら。
「でもなんて異様な晩なのだろう! どういうわけか自分が彼に似ている気がする――自殺をしたその青年に。彼がそうしたことをうれしく思う。生命を投げだしてしまったことをうれしく思う。時計が打っている。鉛の輪が空中に溶けてゆく。彼のお蔭で美を感じることができた、楽しさを感じることができた」(p332)
まさにセプティマスはクラリッサの分身、彼女は自身を彼に重ねている。そしてその死に歓びを感じている。勿論倒錯ではない。彼女は、死が他への拡散であることを確信して、そう言っている(拙稿「『ダロウェイ夫人』を読む第一弾」参照)。
その考えに触れた時、読者の中で、投身したセプティマスと遺されたレイツィアへの見方が変わる。彼の死が、交流と生の歓びと魂の独立への侵害、抑圧への抵抗としてだけでなく、どんなにそれが無念なことであれ、他への拡散として現れ、救われる。
そしてまた残されたレイツィアにとっても、身を切られるような思いは続くだろうが、しかしそれ自体、セプティマスの痕跡であり、さらにはその傷が癒え始めた時は美しく懐かしい思い出として尚更かけがえのないものとなる、そういうものとしていくらかでも胸をなでおろさせる。
読者の中で、彼の死と遺された彼女が、こうした死の捉え方によって、救われる。読者には、そういう形の共感が訪れるのだ。
しかし、それは生の不平等、抑圧を、死ねばみな同じ、他へと拡散できるとして、なきものにする、というのではない。逆だ。
生の恐怖から、魂の独立の下、心の交流、生の輝きを経験して幸福だったセプティマスとレイツィアが、人間性という名の下での権威による抑圧によって死と孤独に追い込まれたことを目の当たりにしてきた読者にとって、死による他への拡散は、救いになるだろう。それは見たとおりだ。
しかし、翻って、では二人の生は、これでよかったのかと顧みれば、とてもそうとは思えない。
戦争による感覚の喪失、その影響での心の交流の喪失、階層差によるそれらの影響の差、それらを読者は許せないと感じるのではないか。言葉にすればだから、
死が他への拡散として平等なら、生も平等であるべきだ。
リチャードに庇護されて裕福なクラリッサはそう感じている。だからそういう自分を不幸で恥辱と考えることがある。
彼女の分身としてセプティマスを配した作者にとっても、おそらくそれは同じだろう。
死、時の無常、魂、そうした人生上の大問題だけでなく、戦争、格差、心の交流、ケア平等といった社会的な問題も視野に入れ、その不平等を静かに告発して、『ダロウェイ夫人』は、クラリッサとセプティマス、そしてレイツィアは、出版から100年たった今も、作品世界を生きつづけ、現代に生きつづけている。