ダロウェイ夫人の、二度目の青年への共感の内実を探っていきます。死の別の位置づけが見えてきます。

後半有料ですが、よろしければお読みください。

10、青年への二度目の共感とは

 クラリッサのにとっての大切なもの、恐怖感の内実、彼女の意識の特質について見てきた。

 次は、青年への共感、特に二度目の共感の内実を探る番だ。

10-1、幽霊的存在としてのクラリッサ――田尻芳樹氏の読み

 参考になるのは英文学教授田尻芳樹の読みだ。(秦邦夫 小川公代編『ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』を読む所収「ダロウェイ夫人と存在の偶然性」水声社2025)

 氏は、この小説に二度登場する隣の老婦人のクラリッサにとっての意味を詳細にあと付けている。 

 それによれば、ラスト近くのこの場面でクラリッサは幽霊的存在として死の側にいる。

 幽霊的存在とは何か。

 すでに引用した朝の一場面を見てみよう。

 クラリッサは、自分の死を思い、それの何が問題なのか問うて、死んだ後も知人の中に、街や樹々やそうしたものの中にも自分は生きつづけると考えた。

 そしてその後街の本屋のウインドウにシェークスピアの「もはや何も恐れるな」の一節を見つける。

 この時のクラリッサの、死してなお知人の中に、自然や街の中に自分は生きつづけるという意識を指して田尻氏は彼女を幽霊的存在と評している。

 彼女のこの考えは、かつてバスの中でピーターに語ったことでもあった。

 わかるようでわかりきれない。

 それはどんな意識か。

10-2、死してなお残るとはどういうことか

 田尻氏は別の論文の中で、その意識がショーペンハウアーの思想の影響であることを解明している。(田尻芳樹『日常という謎を生きる』「第一章ヴァージニア・ウルフと日常的事物の存在論的知覚」東京大学出版会2024)

 全体としての意志があり、そこから表象としての個が生じ、また全体に帰っていく。個は全体の一部だとするこの考えの影響を作者ウルフは受けていて、それがクラリッサの思考に反映しているという。

 さらには、現代の複雑系に基づく科学によってもそれは説明できる。(ニール・シース『「複雑系」が世界の見方を変える』亜紀書房2024)

 それらに導かれて、高校の化学で学んだことから考えてみよう。

 まず、他者の中に生きること。死してなお、人は、関係を持った他者の記憶の中で生きていく。

 では自然や街に中に生きつづけるとは。

 個々の人間は、ひとつの個体だとしても、分子レベル、原子レベル、さらにミクロのレベルで見れば、様々な粒子が集まった集合体だ。しかもそれらは絶えず外界つまりは他と入れ替わっている。

 人は生きているうちから外部=他と交流している。

 そして死は、一つの有機体としてまとまりをもっていた人間を、ばらばらな粒子に解体する。

 その粒子たちは、他へ、外界へ、いわば吸収されていく。

 とすれば、人は死ぬことで、自己という境界を失い、そのことで外界に、自然や街の中に溶け込んでいく。

 つまりはそれらの中で生きつづける。

 その視点に立てば、クラリッサの想いには、頷けるものがある。

 人は、死ぬことで、他者の中に、自然や街の中に広がって生きつづけるともいえるのだ。

 こうして、田尻氏の考察に示唆されて、私は、クラリッサの幽霊的存在の意識を見てきた。

 そこから、この場面でのクラリッサの意識を掴み直すことができる。

10-3、青年への二度目の共感の内実——死による他との一体化

 死、老いと無常、世間体と無。これら三つが絡まり合って、自分ではどうしようもないものとして、時にクラリッサを襲う。

 その意識にさいなまれ、しかし、リチャードのもとにいての一瞬の喜びをまた思い出して、ブアトンでそうしたように空を見上げようと、パーティーを抜けて一人いた部屋の窓辺に近づき、そしてクラリッサは老婦人を目にする。その日二度目。

 すでに見たように一度目は、彼女に、厳粛さ、魂の独立、神秘も感じて、そのことで宗教と愛という怪物に対置した。

 今回は、三つの恐怖を感じた後、一瞬の喜びを思い出した時。 

 ブアトンでのように空を見る。そして驚く。

 その時の描写が一度目との意味の違いを感じさせる。

「そして空は……厳かな空だろうと思っていた。薄暗い空が美しい頬を見せながら背を向けるところだろうと思っていた。だが、この空は……灰の白さだ。そこを巨大な先細りの雲が流れ去っていく。見たことのない空。」(p322)

 

 クラリッサは、ブアトンの時のように一瞬の歓びを感じながら空を見る。厳かな空、を期待して。

 おそらくこれは、一度目の老婦人からの印象に対応している。

 その時、クラリッサは老婦人に厳粛さを見ていた。さらに魂の独立、そして神秘を。

 老婦人を目にしてだから、その頭上、空に厳かさを期待する。いわば人間の、魂の尊厳を。愛と宗教の侵犯にあらがって。

 しかし、違った。空は灰の白さだった。見たことのない空だった。

 これは何だろう。どういうことか。

 田尻氏が指摘するように、クラリッサはここで、死を思っていたのではないか。

 恐怖としてのではない。先に見た、他者と、自然や街と一体化するものとしての死を。

 そういう死を老婦人に重ねた。

 だから空は灰白なのだ。それは死を表している。

 そして彼女にとっての初めての色ということは、クラリッサがここで新たな認識に立ったことを示している。

 それは何か。

 それこそ死による他への拡散なのだ。

 だがそれは、すでにクラリッサの中にあった考えだ。

 しかし違うのだ。以前は、その考えは、死の恐怖を宥めるためのものでしかなかった。

 しかし、今はそれを確信している。老婦人の存在によって。

 そう考えれば、老婦人に対比される背後でのパーティーの客の笑いやさざめきの意味もはっきりする。

 生。

 ここでは生と死が対比されている。

 しかし繰り返すが、この死は恐怖ではない。広がって他なるものと一体化する、その意味で、死、老いと無常、世間体と無という恐怖から自身を解放するものとしての死なのだ。

 このあと、クラリッサはベッドに行こうとする老婦人に惹きつけられる。ブラインドが下ろされる。時計が鳴る。

 田尻氏が指摘する通り、ここでは、老婦人は死を象徴している。繰り返すがそれは恐怖としてのではなく、他に拡散するものとしての。

 そして直後、青年へと思いが戻ってくる。

「今夜、青年が自殺したという。でも、わたしは哀れまない。」(p322)

 だからここではクラリッサの意識は単に恐怖から一瞬の喜びへ戻り、それを守った青年に共感しているのではない。少なくともそれだけではない。メビウスの輪ではなくなっている。

 青年の死もまた、青年が、他者と、自然や街に拡散するものとしてとらえられている。だからこそ、哀れまない。

 そしてまた時計が鳴り、時の無常を告げ、しかし青年を哀れまず、背後でパーティーの喧騒が続き、老婦人が死を暗示するかのように明かりを消し、家全体が暗くなり、その時クラリッサの意識に不意にあの言葉が浮かぶ。

「――もはや恐るるな、太陽の灼熱も。」(丹治 p322)

 朝方書店のウインドウに見たシェイクスピアのあの言葉。その時も、直前、クラリッサは死による他への拡散について考えていたのだった。

 あの時は、自分への言い聞かせという面が強かった。

 しかし、今は、違う。青年の自殺を聞き、魂の独立と一瞬の歓びを守ったとしていったんは共感し、しかし、恐怖を思い、また喜びを思い、そして老婦人を目にすることで、空を見ることで、死を恐怖から他との一体化するものとして確信し、それを果たした者として青年を捉えている。

 青年への共感は、より深められている。あるいは大きくなっている。

 クラリッサの意識は、老婦人に触発され、メビウスの輪的な正負の運動を内に含みながらも、輻輳する意識の中より前向きなものを捉えて、深化を遂げているのだ。

 そう考えると、このあとのクラリッサの意識は、とてもたどりやすいものとなる。

「でも、なんて異様な晩なのだろう? どういうわけか自分が彼に似ている気がする。」(丹治 p332)

 死によって他へ拡散したものとして、いずれは拡散するものとして、自分と青年を似ていると感じる。共感している。

 そのことにはじめて気づいたこの夜は異様でもある。

 時もそうだ。

「時計が打っている。鉛の輪が空中に溶けてゆく。」(丹治 p332)

 時もまた他へ拡散していく。そして、

「彼のお蔭で美を感じることができた、楽しさを感じることができた。」(丹治 p332)

 不可解に見えるこの言葉の意味も、今でははっきりする。

 死による魂の独立と一瞬の喜びを守るという美、他に拡散するという楽しさ、それらをクラリッサは青年に感じているのだ。

 そして、丹治訳にはないが、土屋訳にはある一節の意味も明瞭だ。

「でも、戻らなくては。いまのわたしがすべきは、分解ではなく組み立て。サリーとピーターを見つけること」(土屋訳 p323 光文社古典新訳文庫)

 ここでの分解と組み立ての意味も今や明らかだ。

 死んで粒子となってつまりは分解されて他に拡散されることを考えることから、生きた個として他との関係を作る、組み立てる生へと戻ること。

 そうしてクラリッサは客間へ、パーティーの喧騒へ戻っていく。

 こうして私はクラリッサの二度目の青年への共感を掴むことができた。

 これまでに見たことのない空の色の下での隣の老婦人の姿から、日頃考えていた死は他に拡散することという考えを思い出し、確信し、青年は死んで他と一体となったのだと捉えての共感だったのだ。