今回は青年の死の知らせを受けて、青年が守ったとクラリッサが考える、大切なものとは何か、を考えていきます。
4、クラリッサにとって大切なものとは何か
訳者丹治氏の解釈をきれいすぎて違和感がある。
そう言った私にしても、一読目は、クラリッサのいう大切なものとは、生の瞬間の歓びと考えていた。
私がウルフの小説に惹かれるもの、先に述べた自然や街や人に対して感じる恍惚感だろうと。
小説外から、ウルフの他の作品やエッセイから持ち込んだのではない。少なくともそれだけではない。この作品の中に、それがある。
見ていこう。
クラリッサは、青年が大切なものを守って死んだと考え共感した後、青年はほんとうに大切なものを抱えて飛んだのかと問い返す。
そして直後、クラリッサは自分のこととして思う。
「『いま死ねば、このうえなく幸福だろう』と、かつてわたしは白い服をまとって階段を降りながら、心のなかでつぶやいたことがあった。」(丹治 p329)。
これは、若い頃ブアトンで彼女がサリーに恋をし、彼女もいる一階の食事の席に向う時の感慨である。
その一瞬の昂りとなって発露する恋愛感情は、クラリッサにとって、まさに生の瞬間の輝きだった。
ここで述べられていることは、自分は、サリーへの恋という生の輝きを心に抱いて、「いま死ねば、このうえなく幸福だろう」と思ったことがあるということであり、青年もその時の自分のように大切なものを抱いて死んだのだろうかという問いだ。
ということは、ここで彼女が考える大切なものとは、恋愛による生の一瞬の輝き、ということになる。
一般化すれば生の一瞬の輝き。
さらに、朝、ロンドンの街に買い物に出かけた時のクラリッサの感慨。
「人びとのまなざし、軽快に、意気揚々と、または悄然と歩いてゆく人びとの足どり、轟音と喧騒、馬車、自動車、バス、ヴァン、体を左右に揺らしながらのろのろ歩くサンドイッチマン、ブラスバンド、辻音楽師の演奏する手回しオルガン、そして頭上の飛行機の意気揚々たる調子のよい爆音、その異様に甲高い歌声のような響き――このすべてのなかにわたしの愛するものがある。
人生、ロンドン、六月のこの瞬間がある。」(丹治p13、p14)
彼女は、ロンドンの街と生の瞬間を愛している。これらを彼女の大切なものと考えてもいいだろう。街や人びとの瞬間の輝き。
そして、ここで考えなければならないのは、クラリッサがそれらを愛する背景には、彼女にとっての、ロンドンにとっての、人々にとっての、痛切な経験があるということだ。
一つは戦争。
「いまは六月なかば。大戦も終わった。」(丹治 14)
しかし、息子を亡くした人もいる。そうした中での終戦なのだ。物質的にも身体的にも精神的にも戦争による深い傷を抱えて生きている街と人。
さらに、病。
彼女はインフルエンザに罹った後、「五十歳を過ぎ、病気の後めっきり白いものがふえている。」(丹治 p12)
「往来のただなかにいても、夜中にめざめたときにも、ビッグ・ベンが鳴るまえには独特の静けさや厳粛さ、なんとも言えない小休止、不安を感じるようになる」が、それもインフルエンザのあとおかしくなっている心臓のせいかもしれない、とクラリッサは思う。
インフルエンザから回復し、それでも健康に不安を感じながらの今日でもあるのだ。
戦争と病。そうした生死にかかわる経験のあと、多くの傷を抱えた街と人。だからこそそれらは一層美しくクラリッサには感じられている。
そうした背景も抱えての街や人々の輝き。
かつての恋愛による瞬間の輝きとともに、それが彼女のいう大切なものだと私は考えていた。それは間違っていないと思える、私には。
そう、間違ってはいない。
が、しかし、それだけだろうか。
それはすでに見た丹治の解釈でもあり、これもすでに書いたが、きれいすぎる。きれいすぎて物足りない。
小説自体から促されるものすべてを表していない感じが私にはする。
もう一度青年への一度目の共感に帰ってみよう。すると、大切なもののほかの可能性も見えてくる。
「わたしたちは年をとってゆく。だけど大切なものがある――おしゃべりで飾られ、それぞれの人生のなかで汚され曇らされていくもの」(丹治 p329)
ここまでなら大切なものは、生の輝きと読める。おしゃべりや日常によって曇らされるものということだから。
が、さらに、
「一日一日の生活のなかで堕落や嘘やおしゃべりとなって失われていくもの。これをその青年はまもったのだ。」(丹治 p329)
これはどうか。日常のなかで堕落や嘘やおしゃべりに転化して失われていくものとは何か。
ここでは生の輝きというより、例えば若さ、とでも言ったものを考えたくなる。青年である彼にとっては可能なことだ。五十歳のクラリッサには無理でも。
しかし、無駄なものによる浸食から今ある生を、生の輝きを守ったとはとれる。と、やはり生の輝き、と考えるのがいいのかもしれない。
しかし、さらに、
「死は挑戦だ。人びとは中心に到達することの不可能を感じ、その中心が不思議に自分たちから逸れてゆき、凝集するかに見えたものがばらばらに離れ、歓喜が色あせ、孤独な自分がとり残されるのを感じている
――だから死はコミュニケーションのこころみなのだ。死には抱擁があるのだ。」(丹治 p329)
ここでいう中心とは何か。何の中心か。到達不可能なもの、逸れていくもの、ばらばらに離れ、歓喜が失せ、孤独にさせるものとは何か。
やはり生の輝きととれば、話は通じる。掴んだようで掴みきれないものとして。
生の輝きを掴み切るために、そして守るために、そのことを通して他と交流するために、死は挑戦であり、抱擁であり、コミュニケーションなのだ、と。
だが、何か釈然としない。何かを取りこぼしている感じがする。
もしそうだとして、それは何か。
その視点でさらに先を読む。何かヒントはないか。
あった。
再び、青年への疑問のところ。
「でも自殺したこの青年――彼は自分が大切に思っているものを抱えたまま飛び込んだのだろうか?」
そう自問し、直後、自分もサリーへのたかまる恋愛に、いま死ねば幸福だと考えた後だ。
クラリッサは考える。
「それとも詩人や思想家といった類の人間がいるものだ。」
その種の情熱も持つ青年が、医師ブラドショーのところに行き、高圧的な彼により、魂を無理やり支配する侮辱と威圧を与えたのだとしたら。
「青年はそのときこう言ったのではないだろうか(実際いまはそう感じる)? 人生は耐えがたい。やつらが人生を耐えがたいものにする、ああいった人間が、と。」(丹治 330)
ブラドショーのように、魂を支配し、人を威圧する医師によって、青年は、人生を耐えがたいと感じ、そして自殺した。
ここではクラリッサはそう考え、それを正しいと感じていると言っている。ここでも判断は両極に揺れる。
肝心なのは、ここではクラリッサが、青年は魂を支配しようという力によって、自殺に追い込まれたと考えていることだ。
ということは、クラリッサにとって大切なものとは、ここでは、支配されない魂、魂の独立を指しているととることができる。
とすれば、クラリッサにとって大切なものとは、生の一瞬の輝きだけでなく、魂の独立をも含んでいると考えることができる。
事実そういう研究もある。例えば石川玲子氏によるものだ。(「ヴァージニア・ウルフが描いた「生」のかたち――クラリッサ・ダロウェイの死生観から」、『相愛大学人文科学研究所研究年報』第二号、2008年3月)
氏は、ここで青年が守ったものを、魂の独立、としている。
クラリッサがパーティーを開く自分にとっての一番の目的は、独立を保った孤独でもある魂同士を結び合わせることだとクラリッサは言っていた。
そこから魂の独立と孤独の両義性を捉え、二つの両立を可能にするのは死だけだと彼女は悟っていて、だから、青年は、飛び降りることで、孤独の中の独立を守ったと考えていると指摘している。
率直にって、石川氏の論証は、私にはピンとこない。氏の不備というのではなく、私と着眼しているところが違うからだと思う。私の理解が追い付かない。
しかし、青年が守った大切なもの、クラリッサが大切だと考えているものの内実として、魂の独立がある、という指摘には共感する。
今述べた自分なりの理路、すなわち、青年は権威的な医師によって魂を蹂躙され、人生は耐えがたいと感じて自殺したとここでクラリッサは考えている。
ということは、クラリッサにとって大切なものは、魂の独立であることが、ここで逆照射される、ということだ。
こうして私は一つの結論を得たことになる。
クラリッサにとっての大切なもの、それは、生の一瞬の輝きであり、また魂の独立でもある、と。