Ⅴ、『Wの悲劇』の劇中劇構造の巧みさ

 観返す中での新たな感動として、ヒロインとかかわることとはまた別のこともあった。

 劇中劇構造の見事さだ。

 夏樹静子原作の『Wの悲劇』の内容は、映画の中では劇団海が上演する劇になっている。

 この劇でのヒロインが、羽鳥翔(三田佳子)演じる和辻淑枝、堂原の腹上死の身代わりとなって静香(薬師丸ひろ子)が得たのはその娘摩子役だった。

 静香(薬師丸ひろ子)は、翔(三田佳子)の不倫の罪を肩代わりしたのだ。

 翔のスキャンダルを隠蔽し、自らのスキャンダルとしてそれを逆手に取るという翔の誘惑に載って。

 そのことと、劇中劇、原作『Wの悲劇』の摩子による淑枝の伯父殺害の身代わり(おじい様を刺し殺してしまった)が重なる。

 もっとも見事なシーンは、身代わりを引き受けた直後、静香がプロンプをする最後となる舞台。

 夫道彦との会話でセリフを忘れた翔は舞台袖に近づく。静香のプロンプを求めて。

淑枝「伯父様を殺したのは……伯父様を殺したのはこの私、摩子は、摩子は……(動揺、絶句)」

静香「(プロンプ)私の罪をかぶって……」

淑枝「(絶句のまま)」

静香「私の罪をかぶって、小さな胸に悩みをいっぱいかかえ込んで」

淑枝「私の罪をかぶって、小さな胸に悩みをいっぱいかかえ込んで……」

静香「……犯人は……」

淑枝「犯人は……私なんです。あなた、私警察へ名乗り出ます」(*7)

 いかがだろう。

 このシーン、シナリオと映画で違いはない。

 二重の意味を帯びるセリフが、セリフを忘れた翔とプロンプターの摩子という設定で交わされ、芝居の裏で、二人の狂言劇が、観客の脳裏にフラッシュバックする。

 もしかすると、翔は、後ろめたさから無意識にこのセリフを忘れたのかもしれないとさえ思えてくる。

 映画上の工夫と重々わかっていても。

 直後、翔は、摩子役の菊池かおりに難癖をつけ、彼女を追い落し、静香を摩子役に据える。

 もう一つ印象的な劇中劇は、劇のラスト、静香の摩子役としての初舞台のラスト、本編でもクライマックス、静香の騙り暴露される直前のシーンだ。

 おじいさまを殺したのは、摩子ではなく、母の淑枝でもなく、研究のため遺産目当ての淑枝の再婚相手道彦の仕業だった。

 淑枝は道彦を刺し、摩子と五代演じる刑事が現れたところで、自らの胸に刃を当てる。劇中劇のまさにラスト。

淑枝「摩子ちゃん、ごめんなさい……」

摩子「お母さま、いやーッ」

淑枝「摩子ちゃん、お母さま、こうするしかなかったの……」

摩子「お母さま、死なないで!」

淑枝「摩子ちゃん、ごめんなさいね、つらかったでしょ、お母さんがいけなかったのよ」

摩子「そんなことない、愛してる人のためにしたことなんですもの、女だったら、女だったら、きっとあたしだって……お母さま、お母様、死なないで!」

淑枝「ありがとう……」

摩子「お母さま、お母さまッ、おじい様を刺したのは私じゃない! 2人でそう決めたんじゃない! どうして死んじゃうの、お母さま、お母様ーッ!」(*2)

 そして幕。

 いかがだろう。ここでも淑枝と摩子ふたりの共謀が、翔と静香のそれにオーヴァーラップされ、観客の、私の、意識を二重にして、深いところから揺さぶってくる。

 しかも、劇中劇の身代わりが愛のためなのに対し、本編での身代わりは名声のため保身のため愛を裏切っての行動にすぎず、そのことが強烈な皮肉となって、我々に単なる没入を許さない。

 さらに言えば、この場面は、オーデションが発表された後、研究生たちが居酒屋に集まり、一人が台本を読み上げる、そのシーンでもある。

 始まりが終わりと呼応する。

 挑戦と希望そして野心に満ちた若いエネルギーと虚飾にまみれた醜悪ともいえる狂熱とが照らしあって。見事な構成だ。

 ただし、劇中劇のこの場面では、思わず、静香共感する自分がいる。愛を犠牲にした身代わりなのに、なぜ、彼女を応援したくなってしまうか。

 映画の感動の根拠を考えるにあたって、とても大事な点だが、それについては後で考えよう。

 それはともかく劇中劇の言葉が、現実の選択を照らし出す鏡となり、観る者の心に深く響く。

 こうした劇中劇の巧みさが、何度も観るうちに、はっきりとわかるようになり、私に新たな感動をもたらし続けるのだ。

(*1)『カドカワフィルムストーリー Wの悲劇』p101 角川文庫 1984年

   (以下『フィルム』)

(*2)『フィルム』p143、144。

 

 次回はさらに別の呼応、二人だけのカーテンコール、花束、鏡、音楽、長回しについて考察し、感動の根拠に迫っていきます。