第六回は、映画内の、呼応することでテーマや感動を高めるシーンたち、その点に感動の根拠を探っていきます。
※この回の後半は、有料公開となります(codocを使用)。
これまでの創作を支えてくださった皆さまへ、心より感謝をこめて。
Ⅵ、呼応する印象的なシーン
何度も観返す中での、新たな感動は、他にもある。
ラスト近くの重要なシーンが、前半、それらと呼応する印象的なシーンとして対置されていて、そのことが、より深い感慨をもたらすのだ。
①二人だけのカーテンコール ②花束 ③鏡 ④音楽 ⑤長回しの五つに分けて考えてみたい。
①二人だけのカーテンコール
ラスト、二人の別れのシーン、静香は、一人で女優として生きていく決意を語った後、スカートをつまんで広げ、別れのカーテンコールをする。
彼女の意志を受け入れ力いっぱいの拍手を捧げる昭夫。
感動的なラストシーン。
だが、実は、これとほぼ同じ状況が、二人の出会いの時にすでにある。
正確には、二度目の遭遇場面。
初めて出会った公園で静香を見つけ、昭夫(静香にアタックする男)が声をかける。
静香のアパートの前までついてきて、昭夫が帰ろうとしたとき、二階の窓が空き静香が叫ぶ。
「私殺してしまった。おじいさまを殺してしまった」。
「Wの悲劇」摩子のセリフ。指笛を拭いてはやす昭夫。
その時、静香はスカートをつまみ広げ、つまりラストと同じ動作をして、それに応える。昭夫は大きく拍手をする、笑いながら。
二人の本格的な出会いが別れと呼応している。そしてもちろん、この呼応は映画版のラストでだけ起こる。
出会いはすでに別れを内包していたかのようで、私は、しばらく呆然とする。人生の不思議に出会ったような感慨に打たれて。
そしてまた思う。一度目のカーテンコールは、どこか浮ついていて、しかも、悲劇への入り口だった。
二度目は、悲劇を乗り越え、地に足の着いた決意に満ちていた。
その奥行きが、なおのこと、静香を応援したい、自分もまっとうに生きていこう、と私の胸を揺らすのだ。
②花束
オーディションが終わり、摩子役を射止められなかった静香がアパートに帰ると、昭夫が待っている。紫の花を基調とした花束を抱えて。おめでとうと差し出す昭夫。
静香は、これじゃ嫌がらせじゃない、と花束を取り上げ、それで昭夫を何度も打つ。ハッと我に返って、ごめんなさい。
バラにしなくて正解だったね、飲み行こうか、そして居酒屋へ。その夜二人は結ばれる。
呼応するのは、静香が摩子役に抜擢された東京公演の初日、楽屋口から現れた静香に、かおりが刃物で襲い掛かる。
翔さんの身代わりになって役を奪うなんて許せない、と。
静香をかばって駆け寄り身を呈した昭夫が刺されてしまう。
そのあと、昭夫が静香に渡す花束は紫を基調としている、あの時と同じだ。
二人を結び付けた花束が、今度は別れのしるしになる。昭夫の深い思いと静香の愛の覚醒を感じさせて、二重に私の胸を打つ。
③鏡
薬師丸ひろ子、つまり静香が鏡に向かうシーンは三つある。そしてそのどれもが、意味深い。
一つ目は、五代と夜を共にし明け方、部屋に帰ってのこと。
鏡に向かって、静香は呟く。
こんなものかなぁ。
処女喪失とはということだろう。この時は、まだ、静香は鏡を前にして、正気を保っている。
二つ目は、大阪のホテル。
静香が、翔(劇団のスター女優)の上で死んだ堂原を二人で服を着せ自分の部屋に運んで、椅子に座らせ、フロントに客が死んだと知らせる電話を掛けるシーン。
つまりは自分が翔の身代わりになる電話を掛ける直前、眼下の大阪の夜景を映すホテルの窓が鏡代わりになって静香を映す。
ここから勘違いがもたらした静香の悲劇が始まる。
静香はもう名声という虚栄に取りつかれている。
三つ目は、東京での初日、舞台二階で、母親の罪をかぶって「おじいさまを殺してしまった」と叫ぶ直前、二階の窓が鏡になっていて、摩子である静香を映す。
そして言う、私は人殺し、と。
芝居が出来ないという緊張から自分に役の自分を言い聞かせる静香と、二重の意味で罪を被った静香=摩子の思いが暗い鏡の中の彼女とともに分裂を抱えたものとして胸に迫る。
私が思い出すのは、大学一年の時、今はなき渋谷ジャンジャンで観た芝居「ヴァニティーズ」だ(*1)。
ヴァニティーズとは「鏡台」という意味、加えて「虚栄」の意味もある。衝撃的なこの芝居については今は触れない。
しかし、鏡が虚栄でもあることを私に思い出させて、私の中で「Wの悲劇」のこれらのシーンと深く共振する。
静香は虚栄にとらわれたのだ、と。
ちなみに、静香の属する劇団は劇団「海」。私がジャンジャンで観たヴァニティーズを上演した劇団は、何と、テアトロ「海」だった。
(*1)ジャック・ハイフナー作『ヴァニティーズ』青井陽治訳 劇書房 1982年
以下有料部分は④音楽、⑤長回し場面の対応を見ていきます。
(次回第七回は、主人公静香、薬師丸ひろ子に焦点を絞って、感動の根拠を探っていきます)
→映画『Wの悲劇』:薬師丸ひろ子演じるヒロイン静香はなぜ私の胸を打つのか――色あせない感動の根拠を探る(第七回) | 芸術をめぐって
④音楽
続いて音楽の対応について触れよう。
劇中劇ではサティのジムノペティやヴェルディ、フォーレのレクイエムの一節が印象的に使われているが、映画音楽の担当は今を時めく久石譲、さすがどの曲もすばらしい。
が、さすがとは今だから言えることで、当時久石は「風の谷のナウシカ」の音楽を担当しただけの映画音楽作曲家としては新人であり、劇映画の音楽としてはこれがデビューだった。
五人の作曲家のデモテープから選ばれたのだという。(*2)
ラストのテーマ曲「Woman」は呉田軽歩こと松任谷由実、彼女の傑作のひとつ。アレンジは松任谷正隆だろう。
そして久石の音楽が、テーマ曲「Woman」のイントロと呼応する場面があるのだ。
芝居やめちゃおうかなとつぶやいた静香を昭夫が連れていった2LDKのアパート。
ベランダに出た静香のあと、昭夫も外に出るシーン、久石らしい透明で切ないメロディーが流れ出す。
その出だし。
Womanの印象的なイントロ、逆アルペジオというのか分散和音が十六分音符で奏でられる、あの音型が八分音符で奏されるのだ。
二人が住むことになるかもしれないアパートのベランダのシーンが、二人が分かれるそのアパートへの路地で繰り広げられる二人だけのカーテンコールと、イントロで密かに呼応している。
偶然ではないだろう。どちらがどちらを意識したのか、それはわからない。
が、それに気づくとき、いや気づかなくても、音楽が無意識に働きかけて、観客は、私は、しみじみとした感慨にうたれる。
二人の縁のようなものを思って。
⑤長回し
さらに重要な対応がある。
二つの長回しの場面。
プロデューサーの黒澤満がよく組んだカメラマン仙元誠三の力が大きかったと澤井は言う(*3)。
やや上から撮られたそれらはどちらも強い印象を残す。
一つ目は、昭夫が、摩子役を逃した静香を連れていった行きつけの居酒屋のシーン。
酔って愚痴を言う静香に昭夫が友人のこととして自分の過去を語る。
演劇をやっていた友人は、注目され始めて嫉妬と羨望の対象だった親友がバイク事故で死んだとき、悲しみに浸りきって泣くことができなかった。
もう一人の自分ができてきて、自分のふるまいにとやかく口を出したから。
以来、彼は自分の感情に溺れることができなくなった。
そいつどうしたと思う? 役者やめたよ。
その一言にカウンターに突っ伏して虚ろだった静香の眼が、ふと何かを捉えたように微かに光を発する。胸を抉ったのだ。
もう一つは、悲劇の始まり。
大阪のホテル、翔の上で堂原が死に、静香が身代わりを持ちかけられるシーン。
摩子役を取るために、身代わりを引き受けろ、役者だからできると迫る翔の説得に静香は引きずられ、役者、と呟いて引き受ける。
その時の眼。虚ろだ。洗脳されたかのように。何かに取りつかれたかのように。名声という虚妄に静香は飲み込まれた。
斜め上から長回しで撮られた二つのこのシーンは、長回しとして対応しているだけではない。
役者を捨て実人生の充実を取るか(昭夫)、実人生を犠牲にして名声を取るか(翔)の両極から静香を挟み、引き裂いていく。
三田佳子と世良公則の名演が、理屈ではなく、生きた人間の対比として、静香を、観客を、私を、引きずっていく。
そして二つをいわば止揚するラストに向かっていくのだ。
(この対立はわたしにある小説を思い出させるが、それはまた後で考えることにしよう。)
『Wの悲劇』。この映画が今も胸を打つ根拠を、映画自体の構造から見てきた。
(*2)澤井信一郎、鈴木一誌『映画の呼吸』p193ワイズ出版2006年(以下『映画』)
(*3)『映画』p194
※今回、初めて後半を有料公開とさせていただきました。
読んでくださった方へ、静かな感謝をこめて。