後半、有料ですが、よろしかったらお読みください。

Ⅷ、ドン・キホーテ、ボヴァリー夫人、ラスコーリニコフとの比較で

 前回、静香の本来の人柄の良さ、とでも言ったものを見た。

 その静香が、経験のためと、恋を、人間を手段とし、摩子役のためと身代わりを引き受けたのは、名声のため、スターになるため、自分もそうなりたい、なれるのではないかという、勘違い故だった。

 勘違いによって悲劇が始まる。

 こうした人間像は、他の作品にすでに何度か描かれている。

 ここでは、その代表作、小説と『Wの悲劇』の主人公たちを比較してみたい。

 そのことによって、『Wの悲劇』の、静香の特質が、より浮き彫りになると思えるから。

 さらに、ここまでは映画版『Wの悲劇』について考えてきたが、シナリオ版についても考察の対象にしうると思うから。

 その小説とは、『ドン・キホーテ』『ボヴァリー夫人』『罪と罰』である。

 と言っても本格的な考察をしようというのではない。紙幅と何より力量がそれを許さない。

 あくまで、軽く触れる程度、その点ご容赦いただきたい。

 ①ドン・キホーテとの比較で

 ドン・キホーテは、騎士道小説の読みすぎで、自分を騎士と勘違いし、サンチョ・パンサを連れて諸国遍歴の旅に出る。

 風車を敵と見立て突っ込んだり、思い姫に忠誠を誓ったり。

 やることなすことすでに時代遅れ、滑稽の極み。すべては読みすぎによる勘違いから始まった。

 静香と比較してどうだろう。

 静香もまた、芝居の観すぎ、スタニスラフスキ―の『俳優修業』の誤読によって、引っ込み思案の性格なのに自分もスターになれる、なりたいと勘違いした。

 その点は同じだ。

 小説にしろ芝居にしろ、フィクションに影響される点、またそもそもの性格からして、純真さとでもいったものが共通する。

 しかし、現状認識と手段が違う。

 ドンは自分を騎士と思い込んでいる。手段は騎士としてふるまうことそのものだ。

 だから喜劇になる。そしてその振る舞いの中に、我々が忘れた純粋さを見出して笑いながら彼を好きになる。

 対して静香は、スターになれるかもと思ってはいるが(この点は勘違いだろうが、そうだと言い切れない部分もある。現に一晩だけにしろスター女優になったわけだし)、自分が一介の研究生であることはよくわかっている。

 その手段が勘違いなのだ。

 経験という言葉のもとで、自分をかけた経験ではなく、上っ面の形だけの「経験」を求め、初体験する。

 自分に思いを寄せる男に一晩だけ付き合う、一晩ともにすることを何とも思っていない女のふりをする。

 その極みが、摩子役と引き換えの身代わりだった。ここに純真さはない。

 汚さ、醜さがあるだけ、笑ってはいられない。

 しかし、すでに見たように、その人柄の純真さゆえに、痛々しく、一夜の成功に拍手を送ってしまう。

 ドンが純真さを貫くのに対して、静香は純真さを自ら踏みにじる。喜劇と悲劇。

 だからこそ私は、後者により一層寄り添いたくなるのかもしれない。

 ②ボヴァリー夫人との比較で

 ボヴァリー夫人、すなわち、エンマと静香を比較するとどうだろう。

 エンマは修道院時代、恋愛小説を読みすぎ、バラ色の結婚生活を夢想していた。しかし、田舎医者ボヴァリーとの生活は味気ない。不倫に走る。借金がかさみ結果服毒自殺。

(ただし、この解釈には異論もある。蓮實重彦氏の『『ボヴァリー夫人』論』。

 彼によればエンマの不倫は恋愛小説の読みすぎによるのではなく、一晩貴族の舞踏会に招待されたその幻影を求めてのこと、それが緻密な読解に支えられて展開されている。

 が、ここでは通説に従う。肝心なのは、エンマが幻想を追ったという点で、そこは変わらないから)。

 ドン・キホーテの時と同じく、その過程を目的、手段、結末とに分けて考えてみよう。

 エンマの目的、それはすでに見たように、恋愛への幻想、手段は不倫、結末は自殺。勘違いの悲劇、ということができる。

 恋愛幻想に対して名声への誘惑、不倫に対して人間の手段化、結末こそ違うが、ここまでは同じ方向、まさに勘違い。

 しかし、大きく違う点がある。人柄だ。

 エンマには純真さというものが欠けている。恋愛幻想を求めてという純粋さはある。しかし、純真さ、人柄の良さといったものは感じられない。例えば舞踏会、控室のシーン。

 エンマは、ドレス姿の自分に触れようとした夫の手を振り払い冷たく言い放つ。

「さわらないで」

 強烈な場面だ。幻想ゆえとはいえ、透けて見えるエンマの地金のようなものがきつすぎる、と私には思える。

 ここから先は有料となります。『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフとの比較、映画「Wの悲劇」の特異性を考えていきます。

(次回第九回は最終回。昭夫のケアの精神とその静香への影響を探ります)