ぶつけちゃう。
麻子の言葉は少年の焦りに次第にきき始めていた。自分なりに「ぶつけよう」と思った。
少年が出した結論は、体育館で朝練をしようということだった。
一日でも早くフライングレシーブができるようになりたい。そうすれば、野口の奴を少しでも見返せる。何より麻子に近づいていける。少年は山川と西山を誘った。
二階の窓から秋の朝日が体育館を充たしていた。
淡い光の中を微かなほこりがゆったりと上下している。
少年は人気のないフロアーにキュキュキュ、靴音をたてて遠くに飛んだボールを追いかけた。
光りを横切るボールを見つめて走っていると、不意に麻子の顔が浮かんだ。
そんな時、少年は自分のからだに力が満ちてくるのを感じた。
ある日の休み時間、前の席の山川が広い肩を小さくして濁声で聞いてきた。
「お前、好きな女いるか」
少年は戸惑った。麻子を思った。でもそれを打ち明けていいものかどうか。誰かに自分の気持ちを聞いてもらいたいという気も、少しはあったけれど。
山川は得意げに、
「俺はいるぜ」
と言う。少年も思わず、
「俺だっているよ」
少年には隣の女子二人が聞き耳を立てているのがわかった。山川はそのことを気にも留めず、
「じゃ、お互いの好きな奴の誕生日聞きっこしないか」
胸がざわついた。でも、いい考えだと少年は思った。麻子の誕生日が聞ける。
「いいな」
上擦った声で答えた。隣の女子達が気になって、少年は山川を教室の後ろに引っぱって行き、
「お前は誰だよ」
「お前こそ誰だよ」
「お前が言いだしたんだから、そっちから言えよ」
少年が強く言うと、山川は少年の耳元で囁いた。
「矢川礼子」
「ヘェ、気づかなかったな」
一学期少年の隣に座ってた小柄なぽっちゃりした子だった。
「おまえは」
少年の胸はドクンとしたが、こうなったら言うしかない。
「ン……清水麻子」
「ヘェ、女委員長のアッコちゃん(それが麻子の愛称だった)か。全くお前も隅に置けないぜ。じゃ、さっきの約束な」
山川は柄にもなくウィンクしてから席に戻った。
少年は作戦に成功した。次の休み時間、礼子が一人でトイレから出てきたところをさりげなく、
「矢川さんさァ、誕生日いつ」
聞いたのだった。彼女はあっけらかんと教えてくれた。
ところが山川は大失敗を犯した。
少年が約束を果たし、ホッとして教室に戻ると、教壇の辺りで山川が麻子をつかまえていた。
教室ではクラスのみんながワイワイやっている。少年と山川の話に聞き耳を立てていた二人の女子も。
それなのに山川は大きな濁声で麻子に言った、教室の真ん前で。
「清水、お前誕生日いつだよ」
例の女子の一人が叫んだ。
「わかったァ!」
そしてニヤニヤしながら、少年の顔を見つめたのだった。
その日のうちに噂は広まり、放課後には、少年が麻子を好きなことをクラスのみんなが知ってしまったのだった。
十月になった。教室の窓から見えるブロック塀の向こうの柿の木の実が少しばかり色づいていた。その向こうに頂が白い富士山の紫の山肌が見え隠れしている。
噂は広まってしまったものの、しばらくはどうということもない日々が続いた。
ただ自分の気持ちをみんなが知っていると思うと少年は恥ずかしくて麻子と話をすることができなくなっていた。
その日、何か月かぶりで席替えが行われることになっていた。少年は密かに麻子の近くにいけたらいい、と思った。しかし、席替えはくじ引きだった。それもクラス何人かが代表でくじを引き、席を決める。
放課後その作業が行われている間、少年は部活をしていた。いつものように球拾いをしていても落ち着かなかった。
部活が終わった。夕陽が富士の左肩に沈み、辺りは水色の空気に包まれていた。下校時刻を知らせる音楽が鳴っている。
着替えのために時計台へ向った少年は、西山に呼び止められた。彼はくじ引きをする代表の一人だった。
「おい、広延」
甲高い声。
「お前、いい席になったぜ」
「どこだよ」
「通路挟んで麻子の隣だよ」
胸を何かに掴まれた気がして、少年は大きな声を上げた。
「ほんとかよ」
「ああ、よかったな、ヒヒ」
西山は上目遣いで下品に笑うと去っていった。
少年はうれしくて、手に持っていた汗拭き用のタオルを空に投げ上げた。紺に白が映える。心地いい風が少年の頬を撫でていった。
喜んだのはその時ばかりだった。その後少年はとんでもない災難に見舞われることになったのだ。
次の日席替えが行われて、少年は通路を挟んで麻子の隣になった。
麻子は廊下から二列目の前から三番目、少年は三列目の三番目、緊張した。恥ずかしくて隣は見られなかった。
話をするなど考えられないことだった。
その日の理科の授業だった。
麻子が指名された。少年は一瞬ドキッとしたけれども、その時はそれだけだった。ところが西山が窓際の席から甲高い声で叫んだ。
「ヒューヒュー、広延、赤くなってるぞォ」
クラス中がどっと沸いた。少年は焦って下を向いた。
本当に顔が火照ってきた。ちょっと熱くなったというようなものではなかった。顔から火が出るというのはこのことだろう。意識が朦朧としていく感じさえした。近くに座っていた女子が、
「ほんと、真っ赤だ。あつーい」
と声を張った。少年はただ黙って下を向いているしかなかった。
それからだった。どの時間でも麻子が指名されるたび、少年は条件反射的に真っ赤になるようになってしまったのだ。
クラスのみんなは面白がった。そのたびに野次が飛んだ。麻子がどんな気持ちでいたのか少年にはわからなかった。
ただ彼女が赤くなることはなかった。迷惑そうな態度も取らなかった。
けれど、少年にとってそれは恐怖の日々だった。麻子が指名されないことをいつも願っていた。運悪く指名されたら、何とか赤くならないよう努力した。
でもそれは逆効果だった。少年は赤面恐怖症にかかってしまったのだ。クラスの連中がそのうち冷やかさなくなっても、少年は麻子が指名されるたびに、一人で真っ赤になっていた。
何とかしなければならないと少年は思った。学校にいくことさえ息苦しくなり始めていた。
休み時間、陽の当たらない薄暗い廊下で、少年は白い壁に貼られた交通安全のポスターを一人ぼんやり見ていた。クラスの連中の声が遠くに聞こえる気がする。
噂が広がる前は麻子と話ができたのに。朝二人しかいない教室で話をした時のことを少年は思い出した。朝日に照らされて輝いていた麻子の長い髪。うつむいた横顔に吸い込まれるようだった。
なんだか遠い昔のことの気がして、少年はあの日の光景の中に入り込んでしまいそうだった。悲しみが心を覆っていく。その時、少年はその朝、麻子が言った言葉を思い出した。
ぶつけちゃう。
それは少年の頭の中で反響し、悲しい気持ちを追いやった。
陽の当たらない廊下から教室に入ると、初冬の陽が金色に充ちて眩しいほどだった。
少年は自分なりにぶつけてみようと思った。
誰に? 自分にしかなかった。
次の授業は自習になった。少年は自分が持っていないことを口実に、赤鉛筆を麻子に借りることにした。胸が圧迫されて心臓が喉元までせり上がってくる気持ちのまま、隣の麻子に言った。
「赤鉛筆持ってる?」
麻子は一瞬大きく目を見開いて少年を見た。けれどもすぐ、
「うん、あるよ」
さりげなく言った。
「貸してくんない」
麻子はスヌーピーの筆入れの中をガチャガチャし始めた。自習時間ということもあって、クラスみんなの目が二人に集まった。
赤鉛筆を受け取る時、少年は麻子の手しか見られなかった。赤鉛筆を握ったスッとした指が眩しい。
顔が火照っていくのがわかった。ここが勝負だ。少年はわざと大きな声で、
「誰か鏡持ってないかァ」
と言った。隣の女子がなぜか慌てた様子で少年に渡した。
「どのくらい赤くなるのか自分で見てみたいや」
みんなに聞こえるように言うと、少年は鏡を覗き込んだ。
ほんのり頬が赤かったが、たいしたことはなかった。というより、赤みがひいたのだ。
クラスの連中は面白そうに少年を見ている。麻子がどうしているのかを気にする余裕は少年にはなかった。
それ以来、麻子が指名されても、少年は赤くなることはなくなったのだった。