入学おめでとう 一年五組のみんなへ

 大きく書かれた黒板を前に、真新しい制服たちが押し黙って座っている。

 窓際の一番後ろの席をあてがわれた少年は、穏やかに陽の当たる窓の外へ視線を移した。

 首筋に慣れない詰襟のカラーが当たる。

 冷たい。

 一階の西側にある教室からは、車が通るたびに土ぼこりを上げる道路を隔てたブロック塀と、学校内に唯一残る木造トイレの赤いトタン屋根が見えた。

 ブロック塀の向こうに葉を茂らせた柿の木が数本並び、その奥に富士の威容、濃紫の山肌が見えている。

(脇田広延)

 少年は自分の名前を心の内で呟いてみた。

 見知らぬ光景の中、変わらぬ名前が心細い。

 ビーン。

 黒板の上、壁掛け時計の長針の音が、静まり返った教室内に響く。

 ビクッとして時計を見ると、始業時刻一分前だった。

 少年の通っていた小学校からこの中学に入学したのはクラスの三分の一で、残りはもう一つの小学校出身者だった。

 彼らを包んでいる匂いは、少年の小学校出身者のものとはどこか違う。顔つきからして異国人のように思えた。

 同じ小学校出身者の中にも仲のいい友達はいなかった。それでも「同郷」の後姿は少年を少しだけホッとさせた。

 チャイムが鳴った。教室がより一層張りつめた。

 カツ、カツという靴音のあと、薄緑色のドアが開き、入ってきたのは眼鏡をかけた三十前後、女教師だった。

 簡単な自己紹介を終えると彼女は言った。

「今日はとりあえず学級委員を決めたいと思います。まだみんな知らない人が多いかもしれないけど、推薦はありませんか。まず委員長から」

 丸顔に丸い目、丸ぶちメガネから出たのは美しいソプラノだった。音楽の先生だったなと少年が思った時だった。

「清水麻子さん」

 唐突に女子の声がした。知らない名前だった。別の小学校出身者。

 少年は驚いた。委員長候補に女子の名が挙がったことに。そんなことは少年の小学校では一度もなかった。

(どんな奴だ)

 少年の中で好奇心が膨らむ。

 対抗馬も出されず委員長はそのまま彼女に決まった。

 

 富士山と箱根山に囲まれた高原のこの街では、春の訪れは遅い。

 体育館の正面階段は両側に立つサクラの花に包まれていた。時折吹く風の底にはほの暖かい空気が交じっている。

 階段に並んでのクラスの記念撮影を終えると、少年はさっきの好奇心を押さえられなかった。

 六組との交代でごった返す体育館前で、少年は、同じ小学校出身、肩幅ばかりやけに広く妙にませたところのある山川進をつかまえた。

「おい、清水麻子ってどいつかわかるか」

 彼は持ち前の濁声をさらに下品にして言った。

「早速女探しかよ、広延」

「そっ、そんなんじゃないよ」

 少年は慌てた。けれど山川は案外すんなりと答えた。

「あの桜の下にいる髪の長い奴らしいぜ」

 そこには大きめのセーラー服に身を包んで笑っている女子達がいた。紺色のセーラー服の肩の辺りに桃色の花びらが舞っている。

 少年はすぐに麻子を認めた。女子達の中に長い髪を二つに束ねて垂らしている女の子がいたのだった。

 平たい顔に鼻がチョコンと乗っている。桜の花々から漏れる陽を受け、眩しそうにした瞳が輝いていた。

 少年が想像していたよりずっと平凡な子にみえた。

(あんな奴かぁ)

 心の内で膨らんでいたものが萎んでいく。

(あいつが委員長ねぇ。女のくせに)

 それが少年と麻子との出会いだった。

 

 一学期も半ばを過ぎると、少年たちの話題は女の子のことばかりだった。女の子について大っぴらに話すことが小学生とは違う中学生の証であり、特権でもあるかのように。

 そんな話の出来るクラスの友達が少年にも二人出来た。二人とも少年と同じバレー部に属していた。

 一人は濁声の山川だった。広い肩を揺らして一際大人に見えた。少年がとっくに寝てしまっている時刻の、ヌードが登場するテレビ番組の話をよくした。それは、少年にとって、少しばかり後ろめたいけれど、最も興味のある話題の一つだった。

 もう一人は出身小学校の違う西山一樹だった。背が小さくきゃしゃ、声変わりもしていないのに、妙にませていた。女子バスケ部キャプテンに憧れていて、放課後部活をさぼっては体育館へ通い、彼女の姿を追っていた。

 少年は、そんな自分を意識していなかったけれども、心から好きだと言える女の子を求めていた。

 大人に見える先輩は対象にならなかった。自然、同級生、同じクラスの女の子達に眼がいった。

 何人かきれいだな、と思う子はいた。班活動で話をし、いい子だな、と思う子もいた。

 けれども、この子こそ、という女の子はいなかった。少年にはそれが少し物足りなかった。

 少年にとって麻子は、きれいだな、という対象ではなかった。

 班が一緒でもなかったし、委員長ということで目をひくということもなかった。

 堅物かと思っていた彼女が、他の女の子達とにぎやかにしているのを見て、案外普通の子なんだな、と思った程度だった。

 友達もでき、勉強もバレー部もなんとなくこなし、少年の一学期は終わった。

(こんなもんかな)

 中学にもっと何かを期待していた少年は、かすかな失望を覚えていた。

 

 目を覚ますと、汗ばんだ額に時折吹く風が心地いい。

 少年はまどろみの中で布団を抱きしめ寝返りを打った。薄い夏掛け布団は何か頼りない。

 陽はすっかり高かった。

 高校の部活に行くという姉の布団はもう畳まれていて、光りを映す畳が妙に広く感じられた。

 向こうから洗濯機の低く唸る音が聞こえる。玄関を隔てた仕事場では畳を作る軽やかな機械音が鳴っている。母のスリッパの音が甘い気持ちを呼び起こす。

 夏休みのこんな時間が少年は好きだった。このままずっと布団に寝転んでいたい、と思う。

 また眠りの内に入りそうになった時、玄関の土間にサンダルを脱ぐ音がした。

 茶の間を通り、少年が眠る八畳間をエル字に囲む廊下を抜け、トイレに入った。

 引きずるような足音から、父だろう、と少年は思った。少年の家は祖父の代から畳屋で、今、父と兄がやっている。

 少しの間父は、少年の様子を見ているようだった。洗濯をしている母に小声で、

「こんな時間まで寝かしておくな。和義だって働いてんだし、ひろ子も部活だろう」

 少年はドキリとした。普段非難めいたことを言ったことのない父だった。母は何も言わなかった。

 父が仕事場に戻ると、少年は布団からはい出した。トイレに行こうと廊下に出る。洗濯物を干す母が、

「広ちゃん、もっと早く起きなよ。夜更かしばっかりしてないで」

 と言った。優しい言い様に少年は甘い気持ちのまま、

「うん」

 小さく唇で答えた。