結婚するか。一人で女優を続けるか。

 そのラストの決断の違いは、では、この映画の他の部分をどのように変えただろうか。

 具体的な異同だけでなくその意味は。

 そして映画全体の印象はどう変わったか。

Ⅲ-1、ラスト以外、『Wの悲劇』の他のシーン、セリフの異同。そしてその意味。

 まずは、ラスト以外の他のシーン、セリフの異同とその意味について考えてみよう。

Ⅲ-1-1、親の存在の有無

 映画とシナリオを比べて、ラストを除き、最も印象に残った違いは、ヒロイン静香の親に関することだった。

 シナリオでは親が、静香の演技として両親が一度、実際に母親が一度登場する。

 ところが映画では、この二つは除かれている。

 ①冒頭五代と夜を共にした後、部屋に帰った静香。

 映画では、水を飲み、カレンダーに〇をつけ、こんなものかな、と呟く。

 しかし、シナリオでは、内面の葛藤が、静香のひとり芝居として展開される。

 その人と結婚するのかいという母親。訛りながら結婚なんて考えたことないわと静香。

 会わせてくれという父にそんな必要ないと言って静香は殴られる、そういう演技。(*1)

 ②身代わりスキャンダルの後

 腹上死の後、劇団での記者会見。

 シナリオでは、母親がアパートに静香を訪ねてくる。

 台所に立った母は、稽古に行こうとする静香に、茶しぶはすぐ洗わないとと言った後、お嫁に行けないんだから、教えても無駄なのか、と嗚咽する。無言の静香。(*2)

 映画ではこの場面自体が省かれている。

 シナリオでは、世間の常識を体現していた両親の存在が、映画ではすべてなくなっている。

Ⅲ-1-2、『Wの悲劇』ヒロインの平凡さの強調

 映画でもシナリオでも、ヒロイン静香は、田舎育ちの普通の子、女優を目指しているとはとても見えない、そんな設定になっている。

 エキゾチックなまでにクッキリとした目鼻立ち、アイドル絶頂期の薬師丸を画面に観て、観客は、そうした設定を、ただ通り過ぎていくものとしか見られないのでは、少なくとも私はそうだった、と思いはするが。

 それはともかく、しかし、その強調の仕方が、両者では違う。

 映画では会話で触れる程度だが、シナリオでは、おなじその会話だけでなくそのためのシーンがある。

 ①映画とシナリオに共通のセリフ⑴

 共通している一つ目は、昭夫が公園で二度目に静香を見かけ、声をかけるところ、出身は、と問う昭夫に、静香は答える「東京よ、見えない」。昭夫はすかさず言う。「見えないね」(*3)

 ②映画とシナリオに共通のセリフ⑵

 もう一つは、オーディションで摩子役を射止められなかった静香を慰めるために行った居酒屋のシーン。

 落ち込んで酔って、私は個性的かと問う静香に昭夫は言う。普通の子に見えるね、役者になりたがってるなんて、え! ってなもんだね、と。

 映画とシナリオとでは、細かな違いはあるが、役者志望には見えない、という点は同じだ。(*4)

 ③シナリオだけにあるシーン

 シナリオだけにあるシーンでは、静香の平凡さがさらに強調されている。

 『Wの悲劇』大阪公演のある夜、翔からの小遣いもあって、静香は繁華街のおでん屋に立ち寄り、店の親父と言葉を交わす。

 大阪へは何しに。芝居と答えると、芝居観に、と言われ、何に見えるかを問う。と、学生。首を振る。OL。違う、スーパーか何か。美容師。看護師。そんな答えばかりだ。

 立ち去る時、女優、という答えにひどく驚く親父、そのリアクションに、「冗談。ほんとは保母さん」と言って店を去る、そんなシーン。

 他の何に見えても女優だけには見えないし、予想できる職業も地味で堅実なものばかり、静香の平凡さが、これでもかとばかりに表現されている。(*5)

Ⅲ-1-3、ラスト以外の映画とシナリオの異同の意味

 こうしてみてくると、映画とシナリオの異同の意味が浮かび上がってくる。

 親の存在、平凡さの強調、シナリオでのそれらは、主人公静香のひとつの重要な関係と特質を見せ、静香を縛る。

 そして芝居のために他者を利用し、平凡な自分から脱皮したいと願う、その方向との対比を際立たせて、その強引さを印象付ける。

Ⅲ-1-4、映画全体の印象

 だから、シナリオは、ラスト、昭夫の胸に飛び込むことを自然に感じさせる。

 映画ではそれらが、セリフのみになることによって、静香がまとう軽いエピソードに過ぎなくなり、ラスト、別れの決意を無理ないものに感じさせる、とひとまずは言える。

Ⅲ-1-5、釈然としないもの

 しかし、そう言った時、私の中に、どうにも釈然としないものが残る。

 なんだろう、それは。

 自分の胸の内を、あるいは、脳内を、探ってみる。そして何かの拍子にハタと気づく。

 そういう解釈では、映画の感動が掬いきれない。

 そう、これだ。

 だから、私は、映画がもたらす感動、その根拠に迫らなければならない。

(*1)『月間 シナリオ 1985年1月号』p31、32。(以下『シナリオ』)

(*2)『シナリオ』p57、58

(*3)『シナリオ』p36。『カドカワフィルムストーリー Wの悲劇』(角川文庫 19  

    84年)p31。(以下『フィルム』) 

(*4)『シナリオ』p39。『フィルム』p45

(*5)『シナリオ』p49。