第一回では映画とシナリオのラストの違いを見てきた。

 映画は別れ、シナリオは結婚。前者が自立で、後者は自立ではないとは言わないが。

 では、ここまでの違いはどこから来たか。

 結論から言ってしまえば、角川映画からの要請だったという。

 『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』の中で、グラフィックデザイナーで映画批評家鈴木一誌のインタビューを受けて澤井監督が答えている。

「ラストシーンは、脚本の段階で三回くらい変わったんです。最初は、結婚するって結末になっていた。……そしたら角川サイドから、結婚させないでくれという話になった。あれこれやりとりをして、最終的には、二人を別れさす。ひろ子は、たとえ小さなところでもいいから、そこで演劇を続けていくという、現在のようなラストになった。」(*1)

Ⅱ-1、『Wの悲劇』ラストを変えた角川映画の思惑

 では、薬師丸ひろ子を「結婚させないでくれ」と要請した角川映画の思惑とはどんなものだったのだろう。

 『野生の証明』でデビューして脚光を浴び、角川映画の看板女優、アイドルだった薬師丸をこの映画で結婚させるわけにはいかない、家庭に入らせるわけにはいかない、そういうことだったのではないかと思う。

 このあとも角川映画は彼女を主演とした作品を二本撮っている。

 この点は映画のやはりシナリオとの違いから垣間見ることができる。

 冒頭、三田村邦彦演じる劇団の若手スター俳優と薬師丸とのベッドシーンという、アイドルとしてはショッキングなシーン。

まずシナリオ。

  ホテルの部屋

暗い。

ベッドがかすかに軋んでいる。

ふたつの息遣いが荒くなる。

男の声「……大丈夫?」

女の声「はい……」

男の声「……子供だよ」

女の声「……あ、大丈夫だと思います」

男が動きを停めたよう。

女の声「大丈夫です。やめないで下さい」

ベッドが軋み始める。

どちらのか、深い息が吐かれた。

メインのタイトルが静かに出る。

男が動く気配。

女の声「お願い、まだ、明るくしないで」

ライターの音がして、煙草くわえた男の顔が小さな炎に浮き上がる。

女、まぶしそうに顔をそむける。(*2)

 際どい。露骨と言ってもいい。

 アイドル薬師丸ひろ子のイメージを壊してしまう。

 続いて映画。

 ホテルの部屋。

 暗い。

五代「だいじょうぶ?」

静香「はい……」

五代「子供だよ」

静香「……あ、だいじょうぶだと思います……」

 タイトル。(*3)

 ベッドシーンの生々しさが映画では除かれている。二人の顔も映らない。

 こうして見てくるとアイドル薬師丸への配慮が、第一の理由だと私には思える。

 そうした営業上のことを離れて、彼女の俳優人生への配慮もあったかもしれない。

 しかし、ここではこれ以上触れないことにする。 

 角川の思惑がどうであれ、問題はラストの変更によって生まれた作品の感動だから。

Ⅱ-2、『Wの悲劇』ラストを変えた監督の思い

 監督によれば、このラストには、ロバート・レッドフォード、バーバラ・ストライサンドの『追憶』のラストが念頭にあったという。

 時がたって男は一流ライターになっているが、女は学生時代と変わらず駅頭で何かの反対の宣伝をしている。

 その女性に薬師丸を重ねた。政治的な意味でなく。

 「薬師丸ひろ子に公演のビラ貼るなら貼らせたいと思った。スキャンダルで堕ちても、好きなことを、地道にやってくという女の子にしたかった。」(*4)

 一人自分の道を進んでいく女性像。それが映画成功の一因となったのだと思う。

Ⅱ-3、監督とシナリオライターとの間に話し合いはあったか

 こうして映画とシナリオとの相違、特にラストの真逆さに気づいて、私は、監督が変えたのだろう、シナリオライターとの間に話し合いはあったのだろうか、もめなかったのだろうか、そのことを時に考えるようになった。いつもではないにしても。

 そして、やはり映画は監督が決めるものなのだ、真逆のラストになるとは、と一人決めしていた。

 エンドロールの脚本のところに脚本家荒井晴彦氏とともに監督澤井信一郎氏の名があるのは、このラストの改変によるのだろう、とも勝手に考えていた。

 しかし、違った。

 脚本は二人の三か月かけての共同執筆だった。二人でいくつかの劇団の研究生への取材も行っている。(*5)

 ラストの改変は、すでに見たように、角川映画からの申し出で、脚本の段階で替わっている。

Ⅱ-4、『Wの悲劇』、三つ目のラストとは

 ここで本題からは外れるが、すでに見た澤井監督の言葉の中、気になる点について触れておこう。

 ラストシーンは、三回変わったと監督は述懐していた。一つ目はシナリオの、二つ目は映画の。ではもう一つはどのようなものだったか。

 『映画』にはこうある。鈴木が問う。

「撮影に使った脚本を見せていただくと、最後に「一人ぼっちのカーテンコール」というシーンがありますが。」

「これは撮ったんですよ。ラストシーンが終わりますね。そのあと回想シーンのように、彼女がカーテンコールやってるところにスポットを当てて、大ロングの天井桟敷から撮っている、そういうシーンがあった。」(*6)

 別れのラストシーンのあと、一人ぽっちのカーテンコールの薬師丸ひろ子のシーン。これが三つ目のラストなのだ。

 しかし、余計な思い込みとして削られた。予告編にワンカット使われているという。

 確かに、そのシーンが入ることで、新たな出発をはかるヒロインの涙と決意は薄まる気がする。

 なにより、あの芝居でのカーテンコールは、たった一人になっているとはいえ、偽の経験の結果であり、彼女が否定したものだったのだから。

 しかし、ここではもうこれ以上これには触れない。

 我々が扱うのは、映画の感動の理由だから。

(*1)澤井信一郎、鈴木一誌『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』(ワイズ出版2006年)p210-211。(以下『映画』)

(*2)『カドカワフィルムストーリー Wの悲劇』(角川文庫 1984年)p4、5。ト書きは筆者作成、映画との微妙な違いは映画に合わせた。

(*3)『月間 シナリオ 1985年1月号』p30。

(*4)『映画』p211

(*5)『映画』p192 p194

(*6)『映画』p211

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