ミロ「花火」へのアメリカの影響と、「花火」というタイトルについて考えます。
Ⅲー1、ミロの「花火」にアメリカの影響はないのか
しかし、ミロ「花火」に日本の影響が顕著だからと言って、では、アメリカ抽象表現主義の影響は皆無と言えるだろうか。バルバラ・ヘスによる『抽象表現主義』(タッシェン・ジャパン 2006年)を見てみた。ジャクソン・ポロックのドリップ・ペインティングがその代表例とされている(p10)。
取り上げられている作品は、確かに花火との共通性を感じさせる。例えば「ボアリングのある構成Ⅱ」。青、緑、黒の入り乱れる地の上を、おそらく筆からのだろう、黒が横に斜めに滴って線をなしている。あるいは、「秋のリズム:ナンバー30」。ここでは黄土色の地に黒と白のしたたりが無数の直線曲線を描いている。(*5)
確かにそこには垂れ落ちる線はない。が、滴りと垂れ落ちの違いはあっても、それらが、黒の線を含むこと、そこに共通性を感じるのかもしれない。しかし、繰り返すが、違いは確かにある。滴りと垂れ落ち。
ポロックについて、ジョアン・ミロ、ジョルジュ・ライアール 朝吹由紀子訳『ミロとの対話』(美術公論社 1978年以下『対話』と略)から、ほかならぬミロの言葉を聞いてみよう。インタビュアー、ライヤールの「ポロックをどうお思いですか?」の問いに「出発点としては、とてもいいと思います。しかし限られてしまっています。彼をとても尊敬しています。大好きです。しかし、あそこ(動きに自分をゆだねること……引用者)にとどまっていてはならないのです。彼自身それに気づいて自殺してしまいました。」さらなる問い「あなたは人間の持つすべての電流を汲み取ったフォルムを求め、それと……」「電流! そうだ、電流! それももちろん知性が手引きとなっています。しかし、自分の手がいつもふいに何かを捉えてくるのです。」(p122-123)。
ミロが、ポラックのドリップを高く評価しながらも身体の動きににとどまらず、知性を重視したことが見て取れる。からだの動きだけでなく、知性も働かせつつ新たなものを捉えること。その具体的な現れが、偶然性、すなわち垂れ落ちであり、水墨画のような構図だ、ということができるかもしれない。
ただ、ここで、大急ぎで付け加えておかなければならない。
ミロは、ただ抽象表現主義に影響を受けただけではない。むしろ、後者がミロの影響を受けてもいる。
ジョアン・プニェット・ミロ、グロリア・ロリビエ=ラオラ著『ミロ――絵画を超えた絵画』にはこうある。
「1940年代、ニューヨーク近代美術館での世界初の大規模な回顧展をきっかけにミロの名声は一挙に高まるが、その一方で絵画と文字、造形と記号の結合による詩的バイオモルフックな絵画世界がポロック、デ・クーニングなどのニューヨーク・スクールに衝撃を与えたのも事実である。」(p3)。
ミロから抽象表現主義へ。そしてまたミロへ。
そしてその影響は1947年から1968年の間の四度の米国訪問でももたらされただろう。
「……ミロ晩年の大作は、ある意味でアメリカ抽象表現主義をさらに発展させたと感じられる。」(ミロ展2025年カタログ「私の」p24)。
抽象表現主義の影響も、やはり見て取れるといえるだろう。
だとすれば、花火は、アメリカ抽象表現主義、水墨画、前衛書道、三つの融合、ということができる。あえて何の影響と限定する必要はない。
そしてより肝心なのは、ミロの中で、ミロ主導で、その融合が起こっているということだ。それらの影響で「花火」が描かれたのではなく、この作品のためにそれらの技法がミロの自家薬籠中のものとなって使われているということだ。
主体は飽くまでミロ。強烈な主体。
(*5)「ポロック」で検索してみてください。
Ⅲ-2、ミロの「花火」はなぜ「花火」か。
「花火」は、なぜ「花火」なのか。
それが三つ目の疑問だった。
実物を観て衝撃を受けた時も、そのあともずっとわからなかった。この文章を書こうとして図書館でミロ関係の本を借り、そこに写った「花火」の複製を見て、推測が立ったのだった。
すでに引用した『知りたい』の花火の写真。三連画の各々山の部分を中心にとられていて、こすりつけられ、あるいは投げつけられた山から黒が垂れ落ちていることはすでに触れた。
が、よく見ると、その山の各々から、極細の黒い線が、十本ほどだろうか、頂から放物線を描いて下へと飛び散っていて、それが、光の線の迸りに見えるのだった。(*6)
これか。これも含んで花火か。
中空に円を描いて広がる花火を思い描いていたからわからなかったのだ。
むしろ、しだれ柳と呼ばれる花火や、ナイヤガラと呼ばれる滝のようなのや、家庭用花火セットの中に入っているスティック状、先端から火を放つそれを思い浮かべればよかったのだ。
三つの山はスティックの先端、垂れ落ちや飛び散りがそこから発散する火の滝。
だからこそ始めて観た瞬間、水墨画、切り立った山から落ちる滝の姿を思い浮かべたのでもあったろう。
「花火」というタイトルが腑に落ちた瞬間だった。
しかし、実は、実物の花火にこだわる必要はないのかもしれない。
『対話』の中で、ミロは言う。
「そう、そう、見る人のすきなようでいいのです。犬でも女でも何でも、私にはまったくどうでもいいのです。仕事をしているときはもちろん、私の頭の中で描かれているものは女か鳥であるのです。しかもとても具体的に女か鳥のどちらかであるわけです。そのあとは見る人の自由でいいと思います。」(p163~164)
描かれたものを何ととらえるかは鑑賞者の自由、ミロはそう言っている。ミロがモチーフとして多用したこの発言の犬と女、あるいは鳥を、花火に変えることは十分に可能だろう。だとすれば、どこが花火か、それを問うことにさして意味はない。
問題は、力、それによる衝撃、これだ。その力、衝撃はどこから来るか。
(*6)「ミロ 花火」で検索し画像を拡大すると微かですが確認できます。
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