哲学科の院を目指し卒論に取り組む僕は、駅前の本屋の二階にある開店したばかりの喫茶店を見つけ通うようになる。

👉第一回はこちら:小説 喫茶店の話 #1 新しい店と僕 | 芸術をめぐって

(二)女の子

 秋になった。夕暮れ時、図書館から帰った僕は、いつものように例の喫茶店に入った。

今ではもう僕の指定席ともいえる窓際に座って、駅から時折流れ出す人の波をぼんやりと眺めていた。

水色の空気が次第に暮色に変わり、改札の蛍光灯に照らし出された人々は、一様に疲れて見えた。

その時も客は僕ひとりだった。ママはいなかった。

最近になって雇ったらしい若いウェイトレスに、僕はいつもの「焼きそばセット」を頼んだ。

 その時、軽やかにドアのカウベルが鳴った。ママが帰ってきたのだと思い、僕は目をやった。

入ってきたのは小さな女の子だった。

五歳くらいだろうか、その子はウェイトレスに近づくと言った。

「おかあしゃんはぁ」

 ママの子供らしい。

「買い物よ」

 ウェイトレスの答えに、しばらく俯いて唇を尖らせていた女の子は、何を思ったのかこちらに歩いてくる。

 僕のテーブルまでくると、いらっしゃいませ、手を赤いスカートの前であわせて軽く頭を下げながら言ったりする。

 僕は戸惑った。何と言っていいかわからず黙っていると、

「ここ座ってもいいぃ」

 僕の向かいの席を指差したのだった。

ウェイトレスが慌てて飛んできて、

「ダメよ」

 女の子を制した。

 女の子は大きい垂れた二重の目を上目遣いにして僕を見た。

ふと心がほぐれた気がして、僕は、

「あ、いいですよ」

 と言った。

「ありがとう」

 女の子の甲高い声。

「いえ、でも」

 とウェイトレス。

 僕はもう一度、

「いいんです、いいんです」

 と言いながら、女の子に向かって、

「どうぞ」

 と言った。女の子は、また

「ありがとう」

 と言うと、よじ登るようにして僕の前の席に座った。

「すみません、それじゃ」

 ウェイトレスはカウンターの方へ去っていった。

 母親が、あの親しみやすいママが、いなくてつまらなそうでついそう言ったものの、僕は何を話していいかわからなかった。

 しばらくお互い黙っていた。

 女の子は、ウェイトレスが持ってきたオレンジジュースを、背伸びするようにストローから飲んでいる。

一息つくと、足をぶらぶらさせた。その足が、僕の膝も辺りを蹴った。

「あっ」

 と女の子が言い、僕は女の子の顔を見た。それをきっかけに、僕は女の子に話しかけた。

「いくつ」

 女の子は、足をまたぶらぶらさせながら、左手を精一杯開いてみせた。

「いつつか」

 それから女の子は、右手で、テーブルの上に何かを書くような仕草を始めた。

「何してんの」

「なーに」

「何してんの?」

「えっとねぇ」

「うん」

「だれにもいっちゃだめだよ」

「うん」

「おかあしゃんにもだよ」

「言わないよ」

「おとうしゃんの顔書いてんの」

「へぇ」

 と僕は、テーブルの上に垂れていた水で彼女が書いたその絵らしいものを見た。

眼鏡のような形がわかった。

「眼鏡かけてるんだ、お父さん」

 僕が言うと、女の子はこっくりと頷き、ママに似た大きな垂れ気味の目で僕を見て言った。

「おじしゃんに似てたの」

 えっ! 僕は慌てて、

「お父さんは何してんの」

 聞いてしまった。女の子は、目を落とし、下を向いたまま、

「もういない」

 小さく言った。その時僕は、女の子が「おじしゃんに似てた」と言ったことに気づいた。

何と言っていいのかわからなかった。

言葉を探しあぐねしばらく黙っていると、女の子が言った。

「おかあしゃんこないなぁ」

 僕はとりなすように努めて明るく、弾みをつけるような感じで、

「すぐに帰ってくるよ」

 と言った。女の子は、僕の言葉にはなんとも反応せず、椅子に座ったまま背伸びをするようにして窓の外を見て、

「もうくらいのにね」

 ぽつりと言った。僕はもう何も言えなかった。

 女の子はしばらく窓の外を見つめている。窓に白いブラウスが映っていた。

「ホテルのおばしゃんのとこまたいくのかな」

「ホテルのおばさん?」

 僕はとにかく何か話しかけたくて、聞き返した。女の子は僕の方を向くと、

「あそこいくとね、あたしないちゃうの」

 また足をぶらぶらさせた。

「おかあしゃんもね、ごめんね、もうすこしねってないちゃった」

 何のことだろう。お母さんも泣いた? もう少し? とにかく僕は聞いた。

「今日もそこ行くの」

「ううん。このお店ができてから行ってない」

 少し合点がいった。「ホテルのおばしゃん」とは、ベビーホテルか何かのことだろう。

ということはママは以前、夜遅い仕事をしていたのだろうか。水商売だろうか。

 その時、カウベルが鳴った。店内に清涼な水が注がれた感じで。

ママが帰ってきたのだ。ウェイトレスが、

「お帰りなさーい」

 と言うが早いか、女の子はママを見つけ、椅子から勢いよく飛び降りると、ママのところへ駆け寄った。

 ママは右手にレモンをのぞかせた買い物袋を提げ、左手で女の子の手を握ると、女の子と僕を交互に見ながら、

「こら。あんなところに座って。どうもすみません」

 女の子はふくれっ面をしたように見えた。

「僕がいいって言ったんです」

「そうですか。ほんとどうもすみませんでした。よかったね、お兄さんにありがとう言おうねぇ」

 ママが言うと、女の子はまた、赤いスカートの前で手を合わせ、甲高い声で、

「ありがとう」

 僕は、

「いえ、いえ」

 それが精一杯だった。二人はカウンターに去った。

焼きそばもサラダもアイスティーもすでに空だった。

女の子のことで、何だがバツも悪かった。

席を立ち、ウェイトレスに金を払うと、そそくさとドアを開けた。

女性二人の、ありがとうございました、に重なって、カウベルが小さく鳴った。

 階段を数段降りると、後ろでまたカウベルの音が聞こえた。

「マミっていうんだよぉ」

 驚いて振り返ると、さっきの女の子が、ドアを少し開け、僕を見ていた。

「わすれないでねぇ」

 胸を突かれた僕は、

「忘れないよ。マミちゃんだね」

 手を振った。マミちゃんも手を振った。

と、少し開いたドアの上から、ママが顔をのぞかせ、一緒になってバイバイをしている。

僕はドキッとし、とっさに頭を下げた。ママも微笑みながら軽く会釈した。