最終回、ミロの衝撃を受けて近代を超える目指したい人間像についてです。

13、ミロの衝撃と感性の変容、新たな人間像

 ミロ「花火ⅠⅡⅢ」による第一の衝撃から、その依って来るところを考え、ミロの精神に触れることで、自らの「知的怠慢」を自覚し、ミロの他の作品との比較から、私は自らの近代に囚われた美意識と力観に気づかされた。ミロによる第二の衝撃だった。そしてそこからミロの作品に沿ってそれらを乗り越えるべく考え、ミロ展を再訪し、様式から自由な美意識と力としてのプリミティヴにたどり着いた。

 こうして私は、様式を超えた美、暴力を超えた力ミロから学ぶことで、近代を超えていく感性の方向性を知ることができた。感性の変容の可能性を感じられた。さらに私は、自らの感性を、もちろん理性も含んで、近代を超えた自由なものへと開いていかなくてはならない。開いていきたいと思う。そしてそこからは近代を乗り越える新たな人間像とでもいったものが垣間見えてくるかもしれない。

 13-1、モデルとしての大谷選手、あるいは戸谷洋志氏

 この時参考になるのは、例えば、大谷選手だ。もちろん大リーグ、二刀流で活躍する、あの。二刀流のことを言っているのではない。

 今年25年、オールスター前のある試合で、デッドボール合戦のようになったことがあり、一次は乱闘騒ぎにも発展しそうだった。暴力。そのあと、大谷選手にもデッドボールが当てられた。しかし、一塁へと向かう大谷は、落ち受け落ち着けとでもいった風にベンチに向かって手を挙げ、チームメートを宥めたのだった。

 人一倍練習に励み、誰よりも闘志あふれる大谷は、しかし、闘いのシーン以外では、誰よりも穏やかだった。おそらく監督よりも。

 闘いと穏やかさの両立。あるいは、穏やかさの中に闘いを位置づける姿勢。それはどこか、ミロの作品群を思わせないだろうか。

 あるいはまた戸谷洋志。彼は『詭弁と論破 対立を生み出す仕組みを哲学する』(朝日新書2025年)のなかで、論破という風潮について考え、その対策として、社交を提唱する。

 情報化社会のもと、ポスト・トゥルースの時代が生んだ論破という怪物に、闘おうとしたのでは、こちらが同じく怪物と化してしまう。議論を勝ち負けの場、ショウビジネスの場とせず、実りある機会とするためには、自己変容の姿勢を持ちながら、その場をまず、社交的で優雅な場にする必要がある。そこで、関係が作れた時はじめて、闘いとしての議論もふくむ交わりが生まれるのだと。

 ここでもまた、穏やかさを前提とした闘いの必要性が述べられている。その時やはりミロは、彼の作品は何らかの示唆を与えないだろうか。

 13-2、ミロの自身の生き方への影響

 こうした感性の変容は、もちろん、私自身にも返ってくる。自身の変化を促す。

 私の他者との関係の主要な場の一つは、個別塾、生徒とのそれだ。すでにミロ「今、ここ、これ」「精神の自由」を重視する姿勢と作品への共感として、自身の生徒への接し方の変容は述べた。正義を振りかざして怒るそれから、ケアの対象としてともに進んでいくそれへの変化として。

 そして、ここまでの考察は、私に、さらにその方向へ徹底を求めるだろう。決まり切った型=様式から生徒を裁断するのではなく、一人一人の生徒から出発して彼らの自由な伸長を助けていくこと。怒りといった暴力的な方法ではなく、彼らへの情熱があるからこそ、穏やかな説得や納得を通して、彼らに働きかけていくこと。

 それは生徒だけに限らない。すべてのかかわる他者に対して。

 私は新たな人間になっていかなくてはならない。なりたいと思う。

 その時、ミロは、ミロの作品群は、一つの指標となって私の前に現れ、私を励まし続けるだろう。ミロの言葉通りに。

 「新しい人間像を創り出すこと。

それらに命を吹き込むこと。

そして彼らのための

世界を作ること」(『言葉』p2)。