新たな美意識と力観で見えてくる「花火」について語ります。
Ⅻ、再訪でミロの「花火」はどう見えるか
「花火」に戻ろう。
では、二度目の衝撃のあと再訪によって得たミロの絵画の見方、つまり、様式から解放された美意識と暴力から解放された力観から、「花火ⅠⅡⅢ」を観たら、どう見えるか。
再訪時でもやはり「花火」は圧倒的だった。が、まだこちらが準備不足だった。その分どこか靄がかかっている感覚があった。様式美と暴力的な力を感じた一度目の衝撃から、ここまでの考察を経る過渡期にいて。
今、カタログを観、またまなうらに作品思い出しつつ、今の到達に立って「花火」について考えてみる。
Ⅻ-1、様式美を忘れようとする目でミロの「花火」を観る
一つ目、様式から解放された美、という点ではどうか。具体的には線、面、形、色という点では。
①面=三畳間を三つ繋げたような巨大画面=無限を思わせる白地の背景
まず、面、すなわち背景。再訪時に圧倒された一つは、その大きさだった。自分の記憶の中では襖くらい、ところが、そんなものではなかった。
一面が縦三メートル弱、横二メートル、三面連なって3×6メートル、三畳間を三つ繋げたほど。天井の高い壁一面くらいはある。巨大だ。
1956年ミロがマジョルカに自らのアトリエを持った時、大きい絵が描けると、一番にそれを喜んだというが、その恩恵を最も受けた作品の一つだろう。
壁のようなその画布の面、すなわち背景は、白。無限の空間を表しているかのようだ。その点でやはり日本の伝統と繋がって、しかしミロの表現になっている。様式美を昇華し、独自の面にしている。
②形=三つの幽鬼のような黒い塊
次、形。Ⅰから順に面の中、Ⅱは低、Ⅲは高の位置に描かれた、というより投げつけられこすりつけられた濃淡のある太い黒の筆致は、それ自体が、人影のように、鳥のように、岩のように見えて、あるいは幽鬼のようにも、異形なものにも見えて、いずれにしても三つの形、各々の画面の中心となってその存在を主張している。
③色=色としての黒、ワンポイントの赤、青、黄、紫
そして色。ここでは黒が色なのだ。日本を訪れ、書道の表現力に感化されて、試してきた黒という色。それが濃淡となって、画面を彩っている。そして実は、三つの面それぞれに、ほんの小さく、長方形(曲がったものもある)の赤、青、黄、そして丸の紫が、描かれてワンポイントのアクセントになっている。これらの色が、ミロにとってはおなじみなのは言うまでもない。
④線=垂れ落ちる/飛び散る黒の運動
最後に線。黒の形から垂れ落ちる黒の線。さらに投げつけられこすりつけられた黒の塊から放物線を描いてはね飛ぶような細い線。
これら面、線、形、色が相まって、圧倒的な力で、観る者に迫ってくる。
感性の変容、それを示唆されて、その目で「花火ⅠⅡⅢ」を観ることで、そこに水墨画を見るだけの視点を超えて、しかし、それをも含んで、より一層様式を取り込みつつ自由なミロの精神を感じられた気がする、私的には。
Ⅻ-2、新たな力観で
では、力はどうか。
再訪でも「花火」は圧倒的だったと書いた。それはその通りだ。一度目の衝撃も含めて、「花火」が持つこの力、それをどう捉えたらいいだろう。暴力、あるいは暴力的なものか、それとも逃避・幻想・幼児性・プリミティヴといった力なのか。
①ミロの「花火」=抵抗としての暴力的なもの
暴力的なものだと思う。少なくとも私にとっては、やはり。
しかし、それは、支配としての暴力ではない。むしろ、抵抗としての暴力だ。あるいは、自由を求めて内側から迸り出るという意味での暴力だ。
同時期1973年の作品に「1968年5月」がある。今回は展示されていなかった。『世界の巨匠 ミロ』に収められている。表題から分かる通り、この作品は、パリで起きた学生運動にインスパイアされている。
この作品には、「花火」に共通する形、色、線がある。画面上部に投げつけられたような黒、その塊、そこから垂れ落ちる黒の線、さらに放物線のようなより細い黒い線。抵抗するものの血のしたたり、噴き上げのようにも見える。
印象は違う。「花火」に比べてもっと直接的に暴力的だ。
ここには自由を求める抵抗としての力が感じられる。
同じことが「花火」にも言えないだろうか。日本の様式を借り、花火のイメージを借り、その分、洗練はされている。が、感じられるのは、暴力的なもの、自由を求める抵抗としてのそれではないだろうか。
だから、「花火」に感じられる力は、暴力的なものだとしても、それは支配としての、ではなく、抵抗の、自由を求めてのそれなのだと思う。
その点でミロがスペインの圧政者フランコに反対して『スペインを助けよ』というポスターに記した言葉は、象徴的だ。
「現在の闘いにあって、私は、フランコ側に時代遅れの暴力を、反対の側に創造的な果てしない原動力をもってスペインを激しくかきたてる人民を見る。その力は全世界を驚かせるだろう。」(東野芳明訳)(『対話』p38)
ミロは支配の暴力を時代遅れとし、人民の側の抵抗に創造性を見ている。「花火」が後者であることは言うまでもない。
②ミロの「花火」=精神の自由を求める諸力の一環
そして、「花火」を再び他の作品の中に、その一つとして取り込んでみて見えることは、すべてが「今、ここ、これ」という対象とそれを扱う主体の自由のための、精神の自由のための力として、ミロの中で意識されているのではないかということだ。
暴力的なものが自由を求めての抵抗であるということはすでに述べた。
それ以外、逃避・空想・幼児性・プリミティヴもまた、力として見てきたが、それは、圧政からの、近代からの、様式からの、決まり切った見方からの自由を求めての、まさに力でもあった。
この意味で、それらを含めて暴力的なものと言えないことはない。広義の暴力。ミロの言葉、衝撃を与えることはうれしい、の意味もおそらくそういうことなのだろう。
『対話』の相手ライアールも言う。
「見る者を覚醒させ、挑発することも、彼の芸術の本質をなす暴力である。」(ジョルジュ・ライアール著 村上博哉訳 『岩波 世界の巨匠 ミロ』p34~35 岩波書店 1992年)
しかし、それら力を、精神の自由を求めてのことだからと言って、そのための挑発だからと言って、暴力とか暴力的なものとか云うことには賛成できない。
それでは、ミロの作品の、現代にとっての意味、少なくとも私にとっての意味が曖昧化される。あるいは、再び近代に回収されてしまう。そして、私が一度目の鑑賞の後陥っていた矛盾のようなものから脱することができなくなってしまう。「花火」はいい、衝撃があるから。しかし、他は今一つだった、それがないから、という。
力は、精神の自由を求めてのそれなのだ。そして、その中には、抵抗としての暴力もあるが、もっと柔らかい、逃避・幻想・幼児性もある。プリミティヴだけは、両義的だ。暴力にも繋がり、幼児性にもつながる。さらに原始なものの敵への怯えからの逃避そして幻想にも繋がると言えるかもしれない。
だとすれば、ここで述べてきた力観は、ミロの、根本理念に近づく。すなわちプリミティヴに。若かりしミロがモンロッチの自然とのかかわりで見出したプリミティズムに。
プリミティヴなものが、土台にある。そしてそれは、ある時は幼児性として現れ、圧政や抑圧を前にしたとき、ある場合は逃避・空想として現れ、別の場合は、抵抗としての暴力として現れる。
このように大きい力観の中に抵抗の暴力も含みこませることでこそ、抵抗の暴力は本当の力を発揮するだろう。それは後者を前者に包摂することだ。私は、私の力観をその方向で脱していかなくてはならない。
「花火ⅠⅡⅢ」の力は、だからやはり、暴力的なものによる。少なくとも私には。もちろん支配としてのではない。抵抗としての、自由の発露としての。そこは、かわらない。
しかし、他の作品、逃避・幻想・幼児性・プリミティヴな力をもった絵画たちに、浮遊感や滑稽感を感じたあと、「花火」に対峙すれば、「花火」の力は、プリミティヴの中の自由の発露であり、それを脅かす者への抵抗として位置づく。
その意味で「花火」は相対化される。しかし、それはミロの全体に近づいたことであり、それを通しての「花火」の意味の再獲得だと思う。浮遊感の中でここぞという時噴き上げる自由の希求。暴力的なものにだけ反応するのではなく、愉悦感あるものにも感応できている。私の感性はなにがしか変容しているのではないか。
次回は最終回。ミロの要請する新たな人間像について考えます。
あなたはミロを見て何か変化がありましたか。
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