ミロ展2025年を観て
VOCA展で美術館づき、興味なしで行ったミロ展、彼の「花火」に衝撃を受けるまで
Ⅰ、ミロによる一度目の衝撃=「花火ⅠⅡⅢ」
1-1、VOCA展で美術づき
個別塾の講師という仕事柄三月から四月は暇になる。上野を中心に美術作品を観るのが、恒例だった。
毎年、嚆矢は上野の森美術館のVOCA展、今年も同じだった。そこで、美術づき、他の美術館にも足を運ぶようになる。
正直今年は、VOCA展以外、食指を動かされるものがなかった。VOCA展にしても私的には今年は低調だった。昨年、一昨年と、VOCA賞受賞作の巨大な絵画に目を奪われたのだったが。一昨年の受賞作は永沢碧衣「山衣をほどく」。昨年のは大東忍「風景の拍子」。しかし、今年それほどに惹かれる作品はなかった。
Ⅰ-2、興味ゼロでミロ展へ
それでもミロ展に行くことにした。上野、東京都美術館。
正直、惹かれたのではなかった。日本にはファンが多いということだが、印象に残っているものはなかったし、ポスターやチラシの青を基調とした作品はどこかで観たような気がしないではなかったが。
それでも行くことにしたのは、三月の私的「バケーション」の恒例美術館巡り、今一とはいえVOCA展で美術づいていたからだった。上野公園の散策にもなるし。
いわば興味ゼロの状態だった。ミロの大回顧展ということで、時代順に主要な作品が並んでいた。が、正直どれもピンとこない。幾つか、これは悪くない、と思えるものがないではなかったが、迫ってくるというほどではない。そして最後の展示室。最後から二番目の作品。
Ⅰ-3、ミロによる一度目の衝撃=「花火」ⅠⅡⅢ
目は見開かれていた、と思う。
息が止まり、わずかにのけぞった、のは自覚している。
「水墨画じゃないか、これは」
1974年の作、「花火Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」。
一度目の衝撃だった。
しばらく他の観客は意識から消え、音も、周囲も消え、その絵と自分だけが、展示室にいや、世界に存在しているかのようだった。(*1)
(*1)「ミロ 花火」で検索してみてください。
Ⅰ-4、「花火」の具体
襖とか屏風を思わせる縦長の白が三つ並んでいて、その中に、黒の塊が、一枚目Ⅰは中、二枚目Ⅱは低、三枚目Ⅲは高の位置に殴り書きされ、それぞれから幾筋もの黒い線が垂れ落ちて中低高三つの切り立った山のよう、迫ってくる。圧倒してくる。黒による塊と線。
だから、水墨画のようだと思った。屏風とか襖というより、掛け軸を連想したのかもしれない。三つ並んだ掛け軸。そこに幽山渓谷が描かれている、と。
キャプションを見た。
「花火Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」。
花火?
解説。
「アメリカ抽象表現主義の影響で」
アメリカ抽象表現主義? アクションペインティングのことか。筆を思うままにぶつけ、滴りもそのままに。そう言えないこともなかった。
が、やはり、水墨画だろう。日本だろう。
そう思った。
ミロについては何も知らなかった。が、当日その展示で、ミロが日本に強い親近感を持っていたことを知ったばかりだった。
だから、間違いなくこれは日本だ、と思ったのだった。
が、山水画のようだったから息を飲んだだけではない。何より、その迫力だった、私を撃ったのは。力強い筆のタッチ、大胆に垂れ落ちる黒い線。
その時思い浮かんだのは、水墨画も本物は圧倒的な迫力を持つという加藤周一の言葉だった。そう、ミロの「花火」は、力で私を圧倒したのだ。
帰りの電車の中も、夢見心地だった。衝撃に呆然とし、頭は軽く熱を帯び、瞼裏にさっきの絵、花火が、浮かんでは消えた。