ミロ再訪による、力観の更新について語ります。
Ⅹ、力としての逃避・幻想、加えて幼児性・プリミティヴ
次に力観。
①力としての逃避・幻想。
暴力に囚われた力観から解放され、逃避が実は、過酷な現実を生き延びる力であり、さらには、その突破を希求する幻想も力であることはすでに見た。
②力としての幼児性。
そしてさらに幼児性といったもの。ブルトンの言う意味でのそれをミロは嫌ったが、それはいわば稚拙さといった意味だからだ。
『対話』のなか、ライアールの言葉に答えてミロは言う。
「五十年前から相変わらず、ミロは無邪気だ、少なくとも天真爛漫だという考えが持たれ続けているのですね。」「そうですこういう評判はとても困るんです。知的な怠惰と前に言いましたが、それなんです。」(『対話』p247)。
幼児性を無邪気として劣ったもののように言うことを、ミロは知的怠惰と言う。耳痛い。かつての自分。
しかし、それを、プリミティヴなものの一種ととらえるならば、むしろ幼児性はミロの目指したものの一つだろう。
事実、ミロはいう
「仕事に習熟しればするほど/人生はより前に進み、同時に/最初の頃の感動に、より回帰している。/だとすれば、私の人生が終わる頃には/幼い頃の価値の全てに/また出会えるかもしれない。」(『ミロの言葉』p114)
ミロにとって幼児性は、出発点であると同時にゴールでもあった。その意味でまさに力と言えるのではないか。
さらに、生命の発露として幼児性は紛れもなく力だ。例えば幼子の笑顔、あどけなさ、そうしたものが、こちらの気持ちに働きかけて、なんとも言えない優しく穏やかで愉快な気分にしてしまうのは誰にも経験のあることだろう。こちらの気持ちを瞬時に変えてしまう。それは紛れもなく一つの力だろう。
そしてまた『言葉』の編・訳・著者谷口江里也は書いている。
「幼な子にとっては驚きも感動も喜びも悲しみも、全身で感じる対象との共感にほかなりません。ミロもまた、これらと全身で感応しあっていたのでしょう。」(『言葉』p117)
幼児だからこそ全身で感じ取れる共感。それもまた幼児性の力と言える。
『対話』の中で、聞き手ライアールも言う。
「無邪気さ――罠のようなこの言葉に固執するようですけど――それは暴力、猛威、まさに変革へ、その動きへと前進する肉体のその勢いと相容れないどころか、それらを含んでいます……」(『対話』p222)。
無邪気さは、稚拙さではない。力なのだ。
③力としてのプリミティヴ。
幼児性だけではなく、例えば野蛮といったものも含んだプリミティヴなものが、文明や文化といったものに対して一つの力であることは見やすい。そしてそれはミロの目指した根本理念でもあった。
若くして病に倒れたミロは、故郷カタルーニャの父が買った農場のあるモンロッチでの療養中「自然との深い交わりのなかで、……プリミティズムという概念を見出し、それを自身の土地の文化的ルーツであるロマネスクやゴチック絵画、そして民衆芸術と結びつけて考えた。」(ミロ展カタログ、エステル・ラモス・プラ「『私の作品が、画家によって音楽がつけられた詩のようで会ってほしい』」p12)。
プリミティヴは故郷でミロが見出した重要なイデーだった。さまざまな絵画と結びつきながら、その根底をなす力だった。
ここで言えば様式に対する美、暴力的なものを含みつつも暴力に対する力ともなる力といえるだろう。
だとすれば、ミロの絵には暴力だけでなく、力としての逃避、力としての幻想、そして力としての幼児性、力としてプリミティヴもまた表れている。
つまり、ここにみられる力は、暴力とは違った、一見、弱く、現実離れした、一人前でないもの、劣ったものに見えて、実は、それ自体が、近代を乗り越える可能性を持つ大いなるものなのではないか。
少なくとも別の視点をインスパイアされ、力としての逃避・幻想・幼児性・プリミティヴに気づいてみると、すでに述べた線・面・色・形が具体的に醸し出す浮遊感や滑稽感が、実は、まさに一つの力だと気づく。胸をワクワクさせるような、ふわふわさせるような、笑みを誘うような、そういう意味での力をもって私に迫ってくる。
ミロの言葉を聴こう。
「……ある程度成熟していれば、根源的なまなざし、野生的なまなざし、純粋のままのまなざしを取り戻すことができるのです。まなざしの中にはまた、型通りの見方では見ることのできないものがあるのです。(『対話』p208)
成熟は、型通りの見方を超えることを可能にする。あらたな美意識と力観を得つつある私は成熟しているのかもしれない。