2、ピータの歩くロンドンの街で
⑴三度目の登場
セプティマスとレイツィアが次、三度目に登場するのは、ダロウェイ夫人ことクラリッサが屋敷に帰った後、かつての恋人ピーターが訪ねてきて話をし、視点はピーターに移って、彼がロンドンの街を歩く、その中でだ。
今回は、レイツィアが先、彼女は、苦しみの中にいる。
「つらい。なぜわたしが苦しまなければならないのかしら?」(p119)
これがこの場面での彼女の主調音だ。
意地悪なことを言い、独り言を言っているセプティマスはもう以前のセプティマスではない。
わたしは何も悪いことはしていない。彼に恋をし、幸せで、家もあった、それなのにどうして。
彼がどんどんおかしくなっている。独り言を言ったり、エバンスという戦死した人と話したり、幻覚と幻聴に襲われる。そして、自殺しようと言ったりさえする。かと思えば、世界の意味が解ると言ったり。
「なぜこの人はおかしくなってしまったのか? どうしてわたしが脇にすわると、……わたしの手を指し、握り、怖ろしげに見つめるのだろう?」(p123)
レイツィアはセプティマスの様子に、関係が取れないことに、心底苦しんでいる、原因もわからず。
セプティマスがレイツィアの手を指したのは、結婚指輪がなかったからだ。痩せてしまったから。しかし、彼は勘違いする。「ぼくたちの結婚は終わった。心の痛みとともに……」 しかし一方で「自由だ。万人の主であるセプティマスは自由であるのが当然の定めなのだ」(p123)とも思う。万能感、妄想は続いている。
さらに考える。
「日常的なものからなるこの平穏な光景のすべてが、いま真実になった。美、それは今や真実なのだ。美はあまねく存在している。」(p127)と。
ここでの彼の感慨は、やはり、ダロウェイ夫人の、生の一瞬を愛するそれ何と似ていることか。分身なのだ。
しかし、ここでもやはり、彼のは、常軌をこえてしまっている。快をこえて躁になってしまっている。
そしてこのあと、レイツィアの時間よという言葉が、セプティマスには「時」への不滅のオードとなる。彼は歌う。
ダロウェイ夫人にとって恐怖の一つだった時が彼には頌歌の対象となる。
と、エヴァンズが答える。「死者たちはテッセリアにあり」(p128)と。テッセリアとはギリシアの神々が住むオリンポス山があるところだ(p356註)。
来ないでくれ、セプティマスはどなる。死者と向き合うことなんてできない、と。読者にはエヴァンズがすでに死んでおり、セプティマスと関係のあった人物なのだろうということが分かる。そして、彼にとっても時は死と繋がるもの、クラリッサと同様、恐怖の対象だとも。しかし、
グレーの服の男が近づく。エヴァンズだ! 光りを見たかのように思い、そこからまた躁に転じて、
「幾百万の人間が嘆き悲しんでいる。……ぼくは……人びとに伝えよう、この救いを、個の歓喜を、この驚くべき啓示を――」(p128)と考える。
ここでもセプティマスは躁状態にある。クラリッサにとって歓びの源泉である日常の輝きが躁をもたらし、死につながる時が万能感の源泉になっている。死の恐怖に襲われながらも。
ここでもレイツィアとの間に心の交流はない。だからこそ彼女は苦しんでいる。そしてセプティマスに対する世間の目を恐れている。
⑵四度目の登場
二人の四度目の登場は、やはり街を歩くピーターの意識の流れのあとだ。リージェント公園地下鉄駅の真向かいに震えて立って、震える声で何かを歌っている老婆をピーターが見たあと、レイツィアも見て、かわいそうなおばあさんと口にする。
が、惨めさのせいで縁起を担ぐ癖がついている彼女は、老婆を見て、何こともうまくいく、と不意に確信する。
「サー・ウィリアム・ブラドショーのところへ行くところだけど、なんて響きのいい名前だろう。すぐにもセプティマスを治してくれるだろう」(p150)と。
そして自分は不幸だなんてばかげた幻想だとさえ思う。
彼女は新しい医師、権威あるブラドショーに希望を託している。そのことがあるから老婆の姿に歌に、良縁を見いだしたのだろう。溺れる者は藁をも掴む。彼女のセプティマスへの思い、彼とともに幸せになりたいという思いは、それほど痛切なのだ。
そしてこのあと、セプティマスの登場、が、これまでと趣が異なっている。彼の意識ではなく、彼の外見と半生のうち関連ある最小限が語られ、今、彼が精神を病む原因もわかってくる。
外見は事務員ふう、あまりぱっとしない。子どものころ、母親が原因で家出し、ロンドンに出た。社会人大学に通い講師の女性に恋したこともある。彼女からシェイクスピアを習っていたことはあとで利いてくる。
勤め先、シブリー・アンド・アロウスミス商会の支配人ミスター・ブリューワからは将来を嘱望されていた。
が、セプティマスはヨーロッパ大戦の義勇兵に志願する。フランスへ。塹壕の中で彼は変わる。
「男らしくなり、下士官に昇進し、エヴァンズという名の将校の注目を、というより愛情を得た」(p155)。
そのエヴァンズは、休戦直前イタリアで戦死する。セプティマスは何も感じなかった。冷静だった。そんな自分を彼は喜んだ。最後の砲弾が彼のそばで炸裂した時も彼は無関心だった。
しかし彼を恐怖が突然に襲う。何も感じられない。眼は見える。音も聞こえる。レイツィアたちが家業の帽子づくりに励むのはわかる。しかし、「なにかが変なのだ。感じることができないのだ」(p157)。
戦場での愛するエヴァンズの死、その衝撃から自分を守るために、彼は感覚を失ってしまったのだ。
彼女たちのところにいれば安全だと思えた。しかし一人になり朝早く目が覚めるとベッドが落ちるよう、帽子づくりの部屋の安心が欲しい。彼は陽気で軽薄なレイツィアに求婚する。
しかし、レイツィアとデートしていても何も感じられなかった。
彼女は、街行く人のファッションを批評し、素敵なものには心から称賛した。生の瞬間を享受出来る人なのだ。一方、彼はそうした美を感じられない。さらに、
「通りのまんなかに集い、大声で叫び、笑い、つまらぬことで喧嘩している彼らは、みんなしあわせそうに見える。だけど僕には味覚がない、感覚がない。」「論理立てて考えることは出来る。読むこともできる」のに(p158、159)。
だから感じられないのは世の中の方がおかしい。世界には意味がないのかもしれない。
シェークスピアを読んでもかつての歓喜はもうなかった。
医者にかかろうとしたのは子どものことがきっかけだった。
子どもが欲しいとレイツィアは言った。しかし、こんな世界に子供を送り出すことは出来ない、人間という好色な動物を増やすわけにはいかない、と彼は思う。
子どものないまま年を取るのは嫌だと彼女が泣いても、何も感じない。僕は狂うのか、と彼は恐れ、「誰かほかの人に助けてもらわねば」(p163)と考えたのだった。
セプティマスのこの感覚を失った病、これがまた、レイツィアとだけでなく、クラリッサの生の一瞬の歓びと鋭い対照をなしていることに注意しよう。クラリッサことダロウェイ夫人は、すでに見たように、戦争の終わったロンドン街を歩きながら、街に、人々に、生き生きとした喜びを感じていた。
セプティマスはどうだろう。頭は働く。それなのに感覚がない。だから、生の歓びとでも言ったものを感覚から感じることができない。戦争のせいで、戦争が終わっても。
ここにセプティマスの恐怖がある。
ここでも一方においては生の一瞬の輝きという感性がもたらす大切なものが、他方においてはその感覚の欠如ゆえに恐怖の対象となっている。
そしてだからこそ、彼の感性は、躁状態の中で、感覚を飛び越え、超常現象的なものを求め、そこに歓びを得ようとするのだろう。クラリッサの場合は違う。感覚をこえたものにまで向かうことはあるにしても、それは感性を基盤として、いわば地に足がついたものとして、感じ取っているものだ。
この対照、まさにネガとポジ。分身。
ただしここで指摘しておかなくてはならないことがある。セプティマスの愛とクラリッサのそれについてだ。
セプティマスが本当に愛したのはエヴァンズだった。同棲愛。語り手はこの点を当然のこととして語る。それどころか、至高の愛として。レイツィアとのそれは感覚を失った恐怖から逃れるための手段だった。同性愛を至上とし、しかもそこに語り手の何らの偏見はない。相手が誰であれ、一番の愛と、妥協の上でのそれとして述べているに過ぎない。セプティマス自身もその点は同じように見える。例えば、感覚を失ったことを、同性愛と結びつけるような視点は全くない。飽くまでそれはエヴァンズの死を前にしてのこととして描かれ、彼自身をう思っている
そしてそのことは、クラリッサにも当てはまる。彼女にとっての思考の愛は、若い頃ブアトンでの同性サリーへのそれだった。死んでもいいと思うほどの思いだった。同時期ピーターをも愛し、しかし、経済的精神的安定を求めてリチャードと結婚した。
ここでも、語り手に何らの偏見はない。あったこととして、淡々と描いている。クラリッサの中にも何の偏見もない。
20世紀前半の西欧文学として、これは驚くべき視点ではないだろうか。この開かれた感性は、『ダロウェイ夫人』を、この点で何らのエクスキューズなく、今に通ずるものとしている。
本稿のテーマとのかかわりでいえば、この点で、セプティマスとクラリッサは、イコールの存在、等置されるべき分身となっている。
そしてここでもレイツィアもクラリッサ側にいる。生の一瞬の輝きがクラリッサほど、いわば形而上学的なものとなっていないにしても、その質自体は同じだ。レイツィアは少なくともイタリアにいてセプティマスと結婚した時の彼女は、生を、その輝き享受している。
二人はわかり合えない。ここでもまた。