全七回の第一回です。

はじめに

 胸に何かがせり上がり視界が熱く揺れた。

『ダロウェイ夫人』を読んでいて、いやウルフの小説を読んでいて、初めてのことだった。『灯台へ』に始まり、遡って『船出』『昼と夜』そして『ダロウェイ夫人』と読んできて。

 セプティマスの投身自殺の場面。

 権威ある精神科医ブラッドショウに転地療養を進められ、妻レイツィアの同伴はできないと言われて拒否して帰った二人は、小説内では初めて心を通わせる。

 それまで幻覚と幻聴、恐怖と高揚の中にいて、ひとり孤立していたセプティマス。

 夫である彼を心配し、また不満に思い、世間に知られることを恐れ世間の眼から隠そうとしてきたレイツィア。

 その二人が、部屋について、心を通わせたのだ。

 しかし、そこにホームズ医師が現れ、セプティマスは投身する。

 そこで思わず涙がこみ上げたのだった。

 それにしても、私はなぜ、この場面にこれほど胸を動かされたのか、それについて考えていってみようと思う。

 もちろんそこには、心を通わせることができた二人が、外的な力によって死という形で引き裂かれたことへの無念がある。

 しかしそれだけではない。

 おそらくそこには、セプティマスの、そしてレイツィアの、全存在がかかっている。

 では、この熱いものはどこから来たのか。その理由を、セプティマスとレイツィアの内面を通して探っていきたい。

方法

 この第一回では、私の涙の理由を、セプティマスとレイツィアの内面から探るための方法をまず提示したい。

 小説内の登場順にセプティマスとレイツィアについて追いながら、ダロウェイ夫人ことクラリッサの、ラスト近く、見知らぬセプティマスの死を聞かされた後、彼女に去来した三つのことを指標に、二人の内面を考えていってみようと思う。

 三つのこととは何か。

 以前この場で私は、『ダロウェイ夫人』について論じた。それが今書いた、ラスト近くクラリッサの、身を投げた青年への思いの内実だった。それを、三つのわからなさとして考えていったのだった。

 一つはその時まずクラリッサが考えた彼女にとっての大切なものだった。彼女にとってそれは生の瞬間の喜びだった。この点で彼女は青年に共感した。青年は生の一瞬の輝きを守って死んだのだと。そしてさらに権威による魂の独立の侵害があったのではないかと共感する。

 二つ目は彼女にとっての恐怖、無力感をもたらすものだ。死の恐怖、時の恐怖、世間から見ての無の恐怖、この三つ。

 そして最後に、彼女の青年への二度目の共感。死は他へと拡散していくこと、そうやって残り続けること。隣の老婦人に触発されもして以前からの思いを確信し、その思いからの共感だった。

 では、なぜクラリッサのこの三つの思いを、セプティマスにも当てはめうるのか。

 結論から言えば、セプティマスはクラリッサの分身だからだ。

 モダン・ライブラリー版『ダロウェイ夫人』への自序(一九二八)の中で、作家が自作について語るのは不可能だと書きつつ、明るみに出せる断片としてウルフは二つを上げる。

「すなわち、のちにミセス・ダロウェイの分身として意図されることになるセプティマスは最初の構想においては存在していなかったこと。ミセス・ダロウェイはもともと自殺するか、あるいはたんにパーティーの終わりに死ぬ予定であったこと」(丹治愛訳『ダロウェイ夫人』集英社文庫2007 p367 以下本訳書からの引用はページ数のみ示す)

 見られるように、セプティマスはクラリッサの分身であり、しかも彼女の死、自殺を担う人間としての分身なのだ。

 いわば二人は合わせ鏡。だとすれば、クラリッサが、彼の死を聞いた後考えることの内実としての三つを、セプティマスにも見ていこうとするのは、一つの方法として、理にかなっているといえるだろう。

 大切なもの、恐怖、共感。この三つを指標にセプティマスの内面、そしてレイツィアの内面を見ていこうと思う。

 まとめればこうなる。登場順に二人を追うことを縦軸に、クラリッサの思いから導いた三つの思いを横軸に、セプティマスとレイツィアについて見ていく、その事を通して私の涙の理由もよりクリアに明らかになるだろう。

 だから、これがここでの方法となる。

 この三つの指標は、クラリッサとセプティマスを結ぶ“分身”という構造をもっともよく照らすからだ。

クラリッサの歩くロンドンの街で

 ⑴二人の登場

 登場はダロウェイ夫人が買い物に出た午前中のロンドン、彼女が寄った「マルベリー花店のショーウィンドー真向かいの道路脇に寄っていた自動車から」(p30)ピストルの発射音のような音が立った後だ。

 車にはやんごとなき人物が乗っているらしい。その噂が広まる。

 「総理でえじんの車だったよ」おどけたある男の声を雑踏の中立ち往生したセプティマスが聞く。その場面だ。

 「年のころ三十、顔が青白く、鼻が鳥の嘴のような形をした男だった。茶色の靴に、みすぼらしい外套。その薄茶色の目には、彼をまったく知らない他人をさえ不安にさせるものがたたえられていた。」(p31)

 花屋にいるダロウェイ夫人や道行く周囲の人と同じく、セプティマスはその車を見つめる。

 車の窓のブラインドに木のような奇妙な模様、彼は恐怖に囚われる。

「ぼくの目の前ですべてが一つの中心に向かってしだいに集結する。なにか恐ろしいことがいままさに表面にあらわれ、炎となって燃え上がろうとしている。怖ろしい。世界が揺れ、おののき、そして炎となって燃えあがろうとしている。」(p31)

 被害妄想にも襲われる。

「道をふさいでいるのはこのぼくなんだ。ぼくはみんなから注視され、非難の指を刺されているのではないか? ぼくはなにかの目的のために、ここで舗道に釘づけにされているのではないか?」(p32)

 直後、ふと我に返ったりもする。「だけど何の目的だろう」(p32)

 ピストルの音のようなものに脅かされたセプティマスが、正常な精神でないのがわかる。

恐怖と被害妄想に囚われている。

 そして彼の妻ルクレツィアの登場。

 「小柄で、目が大きく、青白いとがった顔をした、まだ若いイタリアの女」(p32)。彼のために祖国を捨てた純真で、衝動的な二十四歳、イギリスには友人さえいない。

 「行きましょう、セプティマス」

 彼に声をかけたものの、彼女自身車に目をやる。それでも彼を促すと、夫は、怒ったように「わかったよ!」邪魔されたように答える。

 みんなにわかってしまう、と彼女が恐れるのは、夫の容態のことだ。「ぼくは自殺する」といって以来、恐怖と世間体が彼女を苦しめている。助けて、と叫びたいほどに。

 彼は彼女に腕を差し出すが、そこには何の感情もない。

 登場の時、二人の関係は、決していいものではない。

 セプティマスは恐怖と妄想に囚われ、ルクレツィアは世間体と恐怖に脅かされていて、二人は心を通わせてはいない。

 見られる通り二人は初登場の場面から恐怖を抱えている。

 彼の死の知らせを受けてクラリッサが感じた三つのこと、生の歓びと魂の独立、恐怖、共感の内、まず恐怖が出る。

 セプティマスは、精神的病による根拠のない、しかし生からもたらされる恐怖と被害妄想に囚われていた。

 レイツィアは、自殺するということのある夫の病状への恐怖と、それを世間に知られること、つまりはやはり生からもたらされる恐れを抱えている。

 クラリッサの初登場と比べて何という対照だろう。お花は私が買ってくるわ、そう言って街に出た彼女が感じていたのは、朝のすがすがしさ、若い頃のブアトンを思わせる生の歓びの一瞬だった。そしてその後、ロンドンの街に人生に六月に喜びを感じ、さらには第一次大戦が終わったことを心から歓迎する。

 同じロンドンの街にいてクラリッサは生に歓び、セプティマスとレイツィアは生に恐怖する。これが二人のそれぞれの主調音といってもいい。二人はまさに対極、そして分身なのだ。

 ただ、大急ぎで付け加えておかなくてはならない。クラリッサが生の歓びを感じているのは、作品冒頭からしばらくであって、若い頃振ったピーターのことを思い出した後、彼女は、死の恐怖を思い、それも他と一体になるならいいではないか、恐れる必要はないと自分に言い生かせるが、その後、世間的に無であることの恐怖を思い出している。そしてミス・キルマンのことから宗教への憎しみも意識にのぼる。その憎しみを浄化したのが、花屋の店先の花と店員ミス・ピムの存在だった。

 直後ピストルの、実は車の音。そしてセプティマスの初登場。

 つまりは、ここまでで、セプティマスの死を受けて彼女が思い出す、三つのことは、萌芽的ながらすべて出そろってはいるのだ。

 しかし、初登場のまさにその初めが、生の歓びと生の恐怖、その対照にあることは間違いがない。これらについてはまた後で考えたい。そのことを指摘して次に進もう。

 ⑵二度目の登場

 二人の二度目の登場は、通りからしばらく行ったリージェント公園、ブロード・ウォークのベンチ、ルクレツィアが空に煙で文字を描く飛行機に気づく場面だ。

 彼女はセプティマスに。御覧なさい、注意を促す。というのも精神科医ホームズが、彼は少し落ち込んでいるだけ、外の世界に興味を持たせるようにと診断したからだった。

 対して、セプティマスは空を見上げながら、先ほどの恐怖と被害妄想から一転、歓喜の涙を流す。

 あの煙の文字は、彼らが僕に送る合図、「そして美を、より多くの美を、無償で、永久に、ながめるだけのものとして、僕にあたえようという意志を伝えているのだ!」(p43)。

 さらに子守女が「K、R」と空の文字を読んだその声を聴いて、人間の声が樹木を動くことのできる生物に変えると考え、「木々は手招きする。葉は生きている、木々は生きている。そして葉は何百万もの繊維によって、ベンチに腰かけているこのぼくの体とつながっていて、それを上へ下へと煽っている」(p44、45)と感じ、街に響く音全体に新しい宗教の誕生を感じる。

 木には神がいる。小鳥がギリシア語でうたっている、死は存在しないと。そして、思う。

「ここにぼくの手がある。そして死者がいる。……だけどぼくには見る勇気がない。エヴァンズが柵の背後にいるんだ!」(p49)

 エヴァンズとは彼の戦友だ。彼にとってどういう存在かのちに明らかになる。

 そして彼は自身を、「人類の中でもっとも偉大な存在、……社会を改新するためにやって来た主、……贖罪の山羊、永遠の苦悩者」(p50)と感じ、しかしそんな孤独、苦悩は望んでいないとうめく。 

 この時の彼は第一の場面からは一転、燥状態に見舞われているのだろう、木々に生命を感じ、それらとのつながりを感じ、新たな宗教を感じている。確かにそれらは恐怖や被害妄想ではない。生き生きとしたものとして木々を感じている。作品冒頭クラリッサの生の歓びと繋がるものではある。が、やはり、どこか異常だ。高揚の幅が大きすぎて、異常に達してしまっている。

 自らを主と感じる点は言わずもがなである。躁状態なのだ。そして主としての孤独で苦悩に満ちた自分を彼は望んでいない。しばらくは生き生きとしていてもそれは躁、さらにそこからまた苦悩に陥っている。

 そしてレイツィア。

 セプティマスの様子に、一緒には居られないと思い、誰にも相談する人はいないと孤独感に苛まれる。自殺なんて卑怯だ、でも彼は戦争で勇敢にたたかった、しかいもう彼は以前の彼ではない。自分は彼を必要としているのに、彼は一人でも幸せなんだ。誰にも頼れなくて彼からも疎外されて彼女は闇の中にいるほどの孤独を抱えている。恐怖に近い孤独と言っていいだろう。

 しかも世間の目が恐い。道を聞かれても、邪険にしたのは、なにかをぶつぶつ言っているセプティマスを見られたくないからだ。

 世間の目を恐れているから、誰かに相談することもできないのでもあるだろう。

 第二場面でも、セプティマスとレイツィアは心を通わせてはいない。前者は今度は躁の高揚の中一人の世界にいて、一方レイツィアは怖ろしいほどに孤独を感じまた世間の目を気にしている。

 そしてこのあと、空に文字を書きながら高速で飛び舞い上がりそして飛びさる飛行機を背景に、何人かの労働者階級や失業者の眼を通して、彼らの誇りや社会への怒りが語られる。

 そこにこの二人を置いてみるなら、セプティマスが戦争によって精神をおかしくされた社会の犠牲者であり、レイツィアがそのことで孤独感に苛まれるやはり犠牲者であることが見えてくるだろう。

 二番目の登場の場面では、セプティマスは常軌を逸した高揚の中にいて、一方、だからこそレイツィアは彼に頼ることもできず異国の地で恐怖に近い孤独を抱えている。

 ここでも二人はすれ違ってしまっている。

投稿者

fumi

コメントを残す