延幸は三十代半ば、東京の予備校で講師をしている。
彼のもとに中学時代の初恋の人、心を通わせた麻衣子の死の知らせが届いた。
夏の帰省中、共通の友人、良江の車で、ふたりは富士の麓にある霊園の墓参りに行く。
1、墓参り
正面二階建て駅舎のうしろに、箱根山が丸みを帯びた稜線を広げ足柄山に連なっている。
振り返るとまっすぐ伸びる駅前通りの先に、富士山が空を覆ってなだらかな肩を広げていた。
生まれてから十八年間見慣れた景色は、東京暮らしを始めて十八年になる児島延幸をやさしく包み心のこわばりを解いていく。
東京の幾つかの予備校で現代文を教えていた。
鬱が出ないよう拘束時間の短い非常勤講師を選んで三年がたつ。病は収まっていたが、身分は不安定だった。
加えて学期ごとの授業に対する学生アンケートによって次年度の時給や授業数が決まり、結果が悪ければ首になることさえある。
そうしたシステムに心身のどこかがいつも緊張していた。
郷里の風景にその緊張がほぐれていく。
駅前通り入り口角のホテルの前に立ち延幸は赤の軽自動車を待っていた。
海抜500メートルの高原とはいえ、昼下がりの駅前は額に汗を浮かせた。
富士山へ登るのだろう、登山姿のグループが盆休みの駅前ロータリーに点在している。
駅前を時折車が行き交う。赤い車はまだどこにも見えなかった。
盆休みのその日延幸は中学時代の友人柳良江と、初恋のひと、浅岡麻衣子の墓参りに行くことになっていた。
延幸が麻衣子の死を知ったのはちょうど一年前のことだった。
故郷に住む中学以来の友人から東京のアパートに電話があった。
乳がんとわかった時はすでに手遅れだったという。
約束の一時半になっても柳良江の赤い車は現れない。
三人の子どもに昼ごはん食べさせなきゃいけないから、一時半でいい?
数日前東京からの電話で、麻衣子の墓参りに行きたいから同行して場所を教えてほしいと頼んだ時、良江が電話の向こうで言った言葉が延幸の脳裏に浮かんだ。
中三の同級生が三人の子持ちということに延幸は少なからず驚いた。
が、三十七になる自分たちを思えば、良江の方がむしろ世間並ということだろう。延幸はまだ独身だったけれども。
麻衣子には小学一年生の娘がいたという同窓会での良江の言葉を思い出した。良江は子どもの世話に手間取っているのかもしれない。
良江に麻衣子の墓参りの同行を頼んだのは、前年十月に催された中学三年のクラス同窓会のことを思い出したからだった。
二次会のパブに移った時、延幸の隣に良江が座り、親友だった麻衣子の墓参りに行こう、延幸は中学の時麻衣子と付き合っていたんだから、と言った。
付き合っていたといっても、中学一年から二年にかけて時折麻衣子に電話をした程度だった。
お互い別の高校に進学したから、その後の麻衣子の消息を延幸はほとんど知らなかった。
それでも、いや、それだからこそかもしれない、延幸は麻衣子の墓参りに行きたいと強く思った。
麻衣子の骨は分骨され、一方が夫の郷里の九州に、もう一方はF霊園の朝丘家の墓に納められたという。
F霊園は延幸の郷里の街から富士山の裾野を北へ二十分ほど登ったところにある。墓参りは可能だった。
麻衣子の死から一年がたったこの盆休み、延幸は墓参りに行くことにした。
麻衣子の死を知らせてくれた友人も電話で誘ってみたが都合がつかないという。
俺は今度機会があったら一緒に行くから。行きたいんだろ。良江と行って来いよ。
友人の声は温かかった。
駅舎に向かって右手のガードから赤い軽が現れた。目を凝らしていると、車は延幸の前で停まり、フロントガラスの向こうで良江が軽く微笑んでいた。
ドアを開けシートに座りながら、延幸は言った。
「わざわざ申し訳ない」
「どうせ仕事休みで暇だし、夏休みで子どもと旦那、家にいてうるさいし。麻衣子のお墓参りも行きたいと思ってたから」
明るく言うと良江は車を発進させた。
窓外を懐かしい街並みが流れていく。正面には稜線を広げた富士山がある。
車内は程よくクーラーがきいて心地いい。今時の曲が流れていた。良江はこんな新しい曲を聞くのだな、と思った。
生命保険の外交員をしているからか、三人の子を育てているにもかかわらず、所帯じみた気配のない彼女らしかった。
麻衣子もこうした曲を聴いていたのかもしれない。ほんの二年前までは。
右折してしばらくたって信号で車が停まった時、ハンドルを握る良江の左手にふと眼が留まった。うっすらと皺の刻まれた浅黒い手は、良江が三十代半ばであることを物語っている。
俺も同じように歳をとったということだ。そして麻衣子も。
信号待ちしていた車が走り出し、次の交差点に差し掛かった時、延幸は思わず息を飲んだ。
中学に通う時横断した片側一車線の道路が、合計六車線の大通りに変わっていた。
道路沿いに点在していた家並もそれらを囲んで広がっていた緑の田も消え、三四階建ての大型店舗が立ち並んでいる。
「変わったなァ」
思わず声を上げた。
「延幸君知らなかった。もう五年くらい前からだよ」
良江は淡々と言った。
盆と正月、年に二度郷里のこの街に帰ってきても、駅前から歩いて十分程のこの辺りまで足を延ばしたことはなかった。
中学はどうなっているだろう。麻衣子と過ごした学校は。
延幸は振り返って後方に遠退く巨大な車道を眺めた。立ち並ぶ大型店の屋上に富士山の中腹が抉られている。
その時良江が言った。
「この前、麻衣子の夢見てね。それが長い髪を二つに束ねた中学の時の麻衣子だったの」
何かが弾け、延幸は言った。
「三十分くらい寄り道してもいいかな」
「いいけど、どこ行くの」
「中学に寄ってみたいんだ」
良江は黙ったまま一瞬こちらに目をやり、また道路の先を見て言った。
「わかった」