延幸は三十代半ば、東京の予備校で講師をしている。

 彼のもとに中学時代の初恋の人、心を通わせた麻衣子の死の知らせが届いた。

 夏の帰省中、共通の友人、良江の車で、ふたりは富士の麓にある霊園の墓参りに行く。

1、墓参り 

 正面二階建て駅舎のうしろに、箱根山が丸みを帯びた稜線を広げ足柄山に連なっている。

 振り返るとまっすぐ伸びる駅前通りの先に、富士山が空を覆ってなだらかな肩を広げていた。

 生まれてから十八年間見慣れた景色は、東京暮らしを始めて十八年になる児島延幸をやさしく包み心のこわばりを解いていく。

 東京の幾つかの予備校で現代文を教えていた。

 鬱が出ないよう拘束時間の短い非常勤講師を選んで三年がたつ。病は収まっていたが、身分は不安定だった。

 加えて学期ごとの授業に対する学生アンケートによって次年度の時給や授業数が決まり、結果が悪ければ首になることさえある。

 そうしたシステムに心身のどこかがいつも緊張していた。

 郷里の風景にその緊張がほぐれていく。

 駅前通り入り口角のホテルの前に立ち延幸は赤の軽自動車を待っていた。

 海抜500メートルの高原とはいえ、昼下がりの駅前は額に汗を浮かせた。

 富士山へ登るのだろう、登山姿のグループが盆休みの駅前ロータリーに点在している。

 駅前を時折車が行き交う。赤い車はまだどこにも見えなかった。

 盆休みのその日延幸は中学時代の友人柳良江と、初恋のひと、浅岡麻衣子の墓参りに行くことになっていた。

 延幸が麻衣子の死を知ったのはちょうど一年前のことだった。

 故郷に住む中学以来の友人から東京のアパートに電話があった。

 乳がんとわかった時はすでに手遅れだったという。

 約束の一時半になっても柳良江の赤い車は現れない。

 三人の子どもに昼ごはん食べさせなきゃいけないから、一時半でいい?

 数日前東京からの電話で、麻衣子の墓参りに行きたいから同行して場所を教えてほしいと頼んだ時、良江が電話の向こうで言った言葉が延幸の脳裏に浮かんだ。

 中三の同級生が三人の子持ちということに延幸は少なからず驚いた。

 が、三十七になる自分たちを思えば、良江の方がむしろ世間並ということだろう。延幸はまだ独身だったけれども。

  麻衣子には小学一年生の娘がいたという同窓会での良江の言葉を思い出した。良江は子どもの世話に手間取っているのかもしれない。

 良江に麻衣子の墓参りの同行を頼んだのは、前年十月に催された中学三年のクラス同窓会のことを思い出したからだった。

 二次会のパブに移った時、延幸の隣に良江が座り、親友だった麻衣子の墓参りに行こう、延幸は中学の時麻衣子と付き合っていたんだから、と言った。

 付き合っていたといっても、中学一年から二年にかけて時折麻衣子に電話をした程度だった。

 お互い別の高校に進学したから、その後の麻衣子の消息を延幸はほとんど知らなかった。

 それでも、いや、それだからこそかもしれない、延幸は麻衣子の墓参りに行きたいと強く思った。

 麻衣子の骨は分骨され、一方が夫の郷里の九州に、もう一方はF霊園の朝丘家の墓に納められたという。

 F霊園は延幸の郷里の街から富士山の裾野を北へ二十分ほど登ったところにある。墓参りは可能だった。

 麻衣子の死から一年がたったこの盆休み、延幸は墓参りに行くことにした。

 麻衣子の死を知らせてくれた友人も電話で誘ってみたが都合がつかないという。

 俺は今度機会があったら一緒に行くから。行きたいんだろ。良江と行って来いよ。

 友人の声は温かかった。

 駅舎に向かって右手のガードから赤い軽が現れた。目を凝らしていると、車は延幸の前で停まり、フロントガラスの向こうで良江が軽く微笑んでいた。

 ドアを開けシートに座りながら、延幸は言った。

「わざわざ申し訳ない」

「どうせ仕事休みで暇だし、夏休みで子どもと旦那、家にいてうるさいし。麻衣子のお墓参りも行きたいと思ってたから」

 明るく言うと良江は車を発進させた。

 窓外を懐かしい街並みが流れていく。正面には稜線を広げた富士山がある。

 車内は程よくクーラーがきいて心地いい。今時の曲が流れていた。良江はこんな新しい曲を聞くのだな、と思った。

 生命保険の外交員をしているからか、三人の子を育てているにもかかわらず、所帯じみた気配のない彼女らしかった。

 麻衣子もこうした曲を聴いていたのかもしれない。ほんの二年前までは。

 右折してしばらくたって信号で車が停まった時、ハンドルを握る良江の左手にふと眼が留まった。うっすらと皺の刻まれた浅黒い手は、良江が三十代半ばであることを物語っている。

 俺も同じように歳をとったということだ。そして麻衣子も。

 信号待ちしていた車が走り出し、次の交差点に差し掛かった時、延幸は思わず息を飲んだ。

 中学に通う時横断した片側一車線の道路が、合計六車線の大通りに変わっていた。

 道路沿いに点在していた家並もそれらを囲んで広がっていた緑の田も消え、三四階建ての大型店舗が立ち並んでいる。

「変わったなァ」

 思わず声を上げた。

「延幸君知らなかった。もう五年くらい前からだよ」

 良江は淡々と言った。

 盆と正月、年に二度郷里のこの街に帰ってきても、駅前から歩いて十分程のこの辺りまで足を延ばしたことはなかった。

 中学はどうなっているだろう。麻衣子と過ごした学校は。

 延幸は振り返って後方に遠退く巨大な車道を眺めた。立ち並ぶ大型店の屋上に富士山の中腹が抉られている。

 その時良江が言った。

「この前、麻衣子の夢見てね。それが長い髪を二つに束ねた中学の時の麻衣子だったの」

 何かが弾け、延幸は言った。

「三十分くらい寄り道してもいいかな」

「いいけど、どこ行くの」

「中学に寄ってみたいんだ」

 良江は黙ったまま一瞬こちらに目をやり、また道路の先を見て言った。

「わかった」

二、教室


 しばらくすると正面に中学のグラウンドを囲む金網のフェンスが見えてきた。

 フェンスは鮮やかな緑に塗替えられていたが、グラウンドは昔のままの土だった。胸に軽い痛みが走る。

 良江はグラウンド横、体育館前の駐車場に車を停めた。エンジン音が消える。

 ドアを開けると、蝉の声が一斉に降り注いでくる。

 体育館を見上げた。壁はきれいに塗られていたが、昔のままだ。

「変わってないなぁ」

 また胸が軽く痛い。

「ほんと」

 良江が胸の底から息を漏らす。

 体育館前の緩やかな坂を昇ると、木々が突然途切れて、並行して建つ二棟の校舎が現れ、

「あっ」

 二人同時に声を上げた。

 かつては古びた木造だった左側の棟が、クリーム色の真新しいしゃれた鉄筋に変わっていた。

 中庭まで出ると右側の校舎は所々染みの浮いたコンクリートの壁を晒して昔のままだった。

かつてはこちらが新校舎と呼ばれていた。今ではおそらく旧校舎と呼ばれているのだろう。

 いずれにしても、麻衣子と過ごした中一の教室のある校舎は残っていた。

 盆休みのせいか人影はなかった。誰もいない学校は静かで厳かだった。蝉の声だけが聞こえる。

 延幸と麻衣子のいた一年五組は校舎の向こう端の一階にあった。

「俺、あっちいってみるけど」

 延幸が言うと、

「私はこの辺りで一年一組のあったところ見てみる」

 校舎の端に立った二人はそこで別れて、延幸は校舎に挟まれた中庭を向こう端に向かった。

 正面には富士がある。歩くたびに靴の底で砂利が静かな音を立てた。

校舎を結ぶ渡り廊下を通り過ぎると、端にある教室の窓の前に出た。

 延幸は教室後方の窓の前に立ち、ひっそりとした室内を見渡した。

 四十近い机が整然と並んでいる。教壇があり、その背後に黒板が細長く広がっている。

右端に白く「日直」という文字が残っていた。

 窓正面のフェルト地の掲示板には生徒の描いた絵か何かがぎっしり貼られていたのだろう。画鋲が不規則に光っていた。

 細かなところを除けばほとんど変わっていなかった。

時間を超えて昔のままの教室が現れたようで、延幸は息苦しささえ覚えた。

 窓際最後尾の机を見た。延幸があの時座っていた席だった。麻衣子に心惹かれるようになったあの時……。

 校舎にこだまするチャイムの音が聞こえた気がした。生徒たちの歓声が聞こえる。いつの間にか延幸はその席に座っていた。

 四十人ほどの生徒が席に着き教室を充たしている。黒い詰襟と紺のセーラー服たちを前にした教壇には麻衣子が立っている。

 中学一年の秋だった。

 放課後、文化祭にどのように参加するかのクラス討論が行われていた。

 学級委員長だった麻衣子は一人教壇に立って司会を務めていた。延幸は学級委員書記で、自分の机に学級日誌を広げていた。しばらくしても日誌は白いままだった。皆黙っている。

 ホームルームを終えた他のクラスの生徒の歓声や靴音、笑い声が校舎にあふれ、延幸のクラスにも入り込み、クラスは喧騒に包まれ始めた。

「今日まで一週間考えてくることになっていたんです。誰か意見はありませんか」

 麻衣子の張りのある声が響き、教室内が一瞬静まった時、

「そんなこと知るかァ」

 一人の男子がふざけて叫んだ。室内は再び喧騒へとなだれ込む。

 延幸は何も言わなかった。喧騒の一人でしかなかった。

「静かにして下さい」

 麻衣子が再び叫ぶ。

 その時だった。顔色一つ変えなかったけれども、麻衣子の右頬を涙が一滴伝った。教室は一瞬にして静まった。

 麻衣子は右手の甲で涙を拭うと何事もなかったかのように言った。

「それでは話し合いを続けたいと思います」

 富士山の左肩の夕陽に教室が染まっている。夕陽を受けて麻衣子の瞳が輝く。

 麻衣子の真っ直ぐな視線に心が震えた。

 気がつくと延幸は窓の外に立っていた。蝉の声が降り注いでいる。

三、部室

 中庭を校舎のはずれまで歩いた。

裏門の向こう側に、車一台通れるほどの道が左右にのびている。かつては土ぼこりを上げたその道も今はアスファルト道だった。

 道沿いに左手へ行くと新校舎の向こうにグラウンドが見えた。その先、道と平行にコンクリート造りの長細い一階建ての棟が建っている。

 運動部の部室長屋だろう。

 いや、建て替えられたその棟は長屋と呼ぶには立派すぎる。

かつてそこに建っていたのは錆びたトタンで屋根と壁が囲まれ、べニア一枚で部屋を仕切っていたまさに長屋だったが。

 延幸は、あの日のことを思い出した。

 中学一年の十一月だった。

 夏休みの大会を機にすべての部活から三年生は引退し、延幸の属する男子バレー部も二年と一年によって運営されていた。

 球拾いに明け暮れた一学期だっただけに、スパイクやレシーブの練習に参加できることを一年生は期待していた。

 だが、そうした練習は二年生が独占し、一年生は相変わらず球拾いばかりだった。

最初の内こそ不満を持ったものの、延幸達一年生は次第に慣れ、不満と感じなくなっていった。

 そればかりではない。延幸は目をかけてくれたある先輩の腰巾着だった。

 水を汲んで来いと言われれば、金網フェンスの向こうの水飲み場まで先輩の水筒を持って走った。

ランニングコース途上、農家の庭先の柿を取れと言われれば、他の一年生に肩車をしてもらってそれを取り、先輩のところへ持っていった。

 延幸にとって救いだったのは、そうした行為によって延幸だけが練習に参加させてもらえるということがなかったことだった。

 他の部員には仲の良い先輩と後輩と映っていただろう。

 もちろんそういう面もあった。

だが、延幸は練習に対する不満を忘れ、唯々諾々と先輩の言うことに従うだけの存在でもあったのだ。

 そんな時だった。

 部室を使わせてもらえない延幸達一年生は、木枯らしの吹く中、いつも通り時計台の下で着替えをすませ、下校しようとしていた。

 陽はすでに富士山の左肩に姿を消し、辺りは水色の空気に包まれている。

 二年生が占領する部室長屋の前を通ると、体操着を着たままの女子達十人ほどが入り口を囲むようにして立っていた。

 麻衣子が所属するソフトボール部の部室の前だった。

 延幸は、歩を緩めて、麻衣子の後姿を探した。が、見当たらない。そのまま部室の前を通り過ぎようとした時だった。

 部室の中から聞き覚えのある声がした。

「球拾いばかりでなく、一年生にも他の練習させて下さい」

 麻衣子だった。ソフト部の一年生達は、部活運営に関する不満を二年生に対してはっきり示したのだった。

その中心に麻衣子がいることを、彼女の声が表していた。

 延幸は体操着のままのソフト部員達の背中をみつめて立ち尽くした。

 直後、部室から麻衣子が現れた。決着が着いたらしく、麻衣子は安堵の表情を浮かべていた。頬が上気し瞳が潤んでいる。

 心が震えた。

 衝撃に近かった。

 先輩に「飼い馴らされ」て不満を忘れていた自分と、それを皆で先輩にぶつけている麻衣子。

 延幸は自分に対する侮蔑を覚え、水色から紺へと変わる薄闇の中に紛れ込んでしまいたかった。

同時にその感情が強まれば強まるほど麻衣子への思いが募った。

 麻衣子のように生きたい。延幸は強く心に願った。

 校舎へと戻りながら延幸は今の自分を思った。

 学生のアンケートによって全てが決まる予備校のシステムへの不満を忘れ、生き残ることだけを考えている自分がいる。

 あの時の自分と同じなのかもしれない。

 部室から現れた麻衣子の姿が脳裏に浮かんだ。あの時から延幸はいつも麻衣子の姿を追うようになった。

 クラスの友人に打ち明けたことがきっかけとなって、延幸の気持ちが教室中に広がり、ある雪の日、麻衣子も延幸を好きだと人づてに聞いた。

 延幸は時折麻衣子に電話するようになったのだった。

四、夭折

 再び教室の前に立つ。

 二十年以上たった今でも、かつての一年五組を眺めていると、微かに胸をよぎる息苦しさがある。

廊下を走る上履き、教師の怒鳴り声、生徒たちの歓声。

 我に返ると、窓に背後の灌木が映っていた。先端の葉が光っているように見える。

 延幸は振り返り灌木に歩み寄った。

 脇の小さな白いプレートにはアオキと書かれていた。枝の先端の若葉が陽光を緑に透かして輝いていたのだった。美しかった。

 枝の付け根へと視線を移していくと、若葉の下に光沢のある濃い緑の葉があり、さらにその下に茶の葉が今にも落ちそうにぶら下がっている。

 地面には枯れた葉が幹を囲んで落ちていた。

 そこには生物の三代、あるいは四代に渡る世代交代の姿が現れているようだった。

枝の根元の茶の葉に、生涯を尽くした者への畏敬の念に近いものをおぼえた。

 茶の葉は枯れて地面に落ち、自らを肥やしとして木全体の役に立っていく。

 人間は老いて死んだら、どういう形で後世の役に立っていくのだろう。

 わからなかった。というより言葉にならなかった。

 十年以上前に逝った祖父と祖母の顔を思い浮かべると、言葉にはならなくても心の奥で何かを納得している自分がいた。

 ふと、枝の上の若葉や中央の濃い葉が、根元の葉より先に枯れて地面に落ちてしまったら、それはとても悲しいことだろうと延幸は思った。他の葉にとって、木全体にとって、自分にとって。

 そして、麻衣子の死を思った。

「延幸君」

 振り返ると渡り廊下の向こうに良江が立っていた。

 森閑とした校舎に挟まれた他に人影のない中庭に蝉の声が滝のように注いでいた。

 二人を乗せた軽自動車のフロントガラスに富士山が覆いかぶさるように聳えている。

 両脇に桜の木が並ぶ道をしばらく行くと、突き当りに富士を背にして緩やかな丘が見えてきた。F霊園だった。

門を抜け舗装された広場をしばらく進み、良江は車を停めた。

「麻衣子のお墓、どの辺りだったかな」

 脇に置いたバッグから赤い表紙の手帳を取り出し、日程表のページをのぞいている。

 広場は桜の木やつつじに囲まれた公園のようで、墓石はどこにも見当たらない。

 樹々に隠れた両脇の広大な丘に墓が並んでいるらしかった。

「一号ハ区画八一二」

 独り言のようにつぶやくと、

「右側だ」

 車は右折し狭い道に入った。

 一度左折し再び左折するとき、角に「一号ハ」と書かれた柱が立っていた。

 木々に覆われた道を進み、ふと視界が開けたかと思うと、車二十台分ほどの駐車場が広がっていた。

 良江は車をアスファルトの白線の中に停めた。もう一台車が停まっているだけだった。

「俺、線香しかもって持ってこなかったけど、花買うとこあるかな」

 シートベルトを外しながら延幸が言うと、

「私、持ってきた」

 二人は車を降りた。

 海抜五〇〇メートルの駅前よりさらに同じだけ昇ったF霊園は、夏の午後の陽を受けて、思ったより暑かったが、時折吹く風は涼しかった。

 無数の蝉の音が丘の斜面に切り拓かれた一区画を遠巻きにして降り注いでいる。

 駐車場の脇の水くみ場で、延幸はそなえつけのプラスチック製の桶に水をたっぷり注ぎ、柄杓を持って良江の後について坂を昇った。

 右側の平らにされた地面に台形の墓石が並んでいる。「五〇一~五五〇」と書かれた小さな木札が立っていた。さらに坂を昇るとまた、平地と墓石が現れて「五五〇~六〇〇」。

 丘の斜面に段々畑のように平地が造られ、五十ずつ墓があるようだった。

「八〇一~八五〇」の木札の前で良江は立ち止まり、

「ここだ」

 整然と並んだ墓に沿って進むと十二番目のところで、

「ここだよ」

 良江が言った。「朝丘家」と刻まれた台形の墓石が立っていた。

 ひとつの墓の敷地は一畳ほどだろうか。F霊園の職員が手入れをしているのだろう、両脇に小さな植物が植えられ黄色い花をつけている。

 墓石の前には新しい切り花が添えられ、線香が形をとどめたまま灰になっていた。

「家族が来たのかな」

 延幸が言うと、

「昨日、麻衣子の命日だったでしょ。それに高校の友達もお墓参りするって言ってたから。私は用があって来られなかったんだけど」

 灰色の墓石は八月の太陽を受けて台形に乾ききっている。

 延幸は桶を持ち墓石の前に立つと、柄杓で三度水をかけた。水を受けた部分だけが黒灰色に変わっていく。良江が、

「麻衣子暑いだろうから、もっとかけてやろうよ」

 延幸から桶と柄杓を受け取り、一度、二度、墓石全体が黒灰色に潤っていく。それを見届けると、もう一度良江はかけた。

 延幸は墓石の後ろに回り、腰をかがめて埋葬された人達の名前を確かめた。

 昭和四十二年没は麻衣子の父親だろう。麻衣子が延幸達が七歳の時、昭和四十四年にも七十代の男の名がある。祖父だろうか。

 しかし、麻衣子の名はなかった。石に刻まれた「麻衣子」という文字を指でなぞってみたかった延幸の胸に空虚感のようなものが起こった。

「麻衣子の名前ないけど、どうしてかな」

 独り言のように言った。

 良江は答えなかった。

「家族の人、麻衣子の死を認めたくないのかな」

 そう言った後、延幸は自分の言葉の意味に気づき、麻衣子の家族に対しいたたまれない思いを抱いた。

「分骨されてここにいるからじゃない。九州のご主人のお墓の方に、きっと麻衣子の名前が刻まれてるんだよ」

「そうか。そうだよな。きっとそうだよな」

 延幸は自分に言い聞かせるように何度も頷いて。墓石の前に戻った。

 良江がすでに花のある花差しにさらに切り花を入れ、延幸が柄杓で水を注いだ。

 線香を包んだ新聞紙を棒状に丸めてひねって地面に置き、ライターで火をつける。新聞紙がみるみる灰になっていく。線香をかざしてもなかなか火がつかなった。

「墓参り、慣れてないからうまくいかないな」

 延幸が言うと、

「私も慣れてない」

 良江は延幸が線香に火をつけるのを黙って見守っている。

 ようやく全てに火がついた線香を軽く振って炎を消し、半分に分けて一方を良江に渡す。

 良江は墓石の前にしゃがむと、線香を置いて頭を垂れ、しばらく手を合わせていた。

 良江が立ち上がると、延幸は線香を備えてから石の前にしゃがみ、手を合わせ目をつむった。

 中学一年の秋の日の麻衣子のことが思い出された。

 幾度目かの電話の時、自分の家が畳屋であることを話したあと、麻衣子の父の仕事を尋ねたことがあった。

――お父さん、工事現場で働いてたんだけどね、私が小学校一年の時、工事中の事故で死んでいないんだ。

 延幸はしばらく言葉が出なかった。闇の中で、蛍光灯に青白く照らし出された公衆電話のダイアルを見詰めていた。小さく、

「そうなんだ」

 とだけ言った。息が白くなった。

 小学校一年の時父を失って以来、三人妹弟の長女と聞いていた麻衣子は母を支え、妹弟の面倒も見ているのだろう。

 麻衣子のその言葉に、延幸は自分の心を震わせた彼女の存在の根に突き当たった気がした。

 父母、兄姉、祖父母、七人家族の末っ子として、家族の中で責任というものをほとんど持たない自分に比べて、彼女は家族の中で確固とした責任を果たしているのだろう。

 麻衣子の真っ直ぐな生き方は、彼女の境遇と、その前で頭を垂れない姿勢によって培われたのだろう。

 麻衣子のようでありたいと願う一方で、彼女にはかなわないと延幸は素直に思った。

 だが、そう思えば思うほど、麻衣子に対するいとおしさと尊敬のようなものが心を占め、延幸はなおさら麻衣子のように生きたいと思った。

 奥深い部分から湧き上がる心の震えをあの時延幸はどうすることもできなかった。

 今はもう亡い麻衣子に対し自分の言える言葉は何だろう。目をつむり手を合わせながら延幸は自問した。

 そして一つの言葉が浮かんだ。

 心の内で呟き、頭を深く垂れると延幸は立ち上がった。正面に足柄山から箱根山の稜線がゆったりと続き、その下の盆地に郷里の街並みが見えた。振り返ると仰ぎ見るような富士山が聳えている。

「麻衣子、延幸君が来てくれるなんて思ってもいなかったよ、きっと」

 良江がポツリと言った。延幸の心は微かに翳った。麻衣子の墓に来るのは延幸にとって自然なことだ。

 麻衣子もをれを普通のことだと思うだろう、と延幸は思っていた。

 だが、考えてみれば、延幸が麻衣子と時を共にしたのは中学の三年間に過ぎない。

 心を通わせたといっても幼い者同士、一年半ほどのことでしかなかった。三年になる頃には電話もしなくなり、交流は途絶えていた。

 それでも、いやそれだからこそ、いつか麻衣子に会って思い出を語り、麻衣子の生き方に憧れたことを伝えたかったと延幸は思う。

 おそらく麻衣子ははにかんだ笑みを浮かべて、

――私、そんなに立派じゃないよ

 とでも言っただろう。今となってはそれもかなわない。

「帰ろうか」

 どちらともなく言って、二人は丘を下った。

 午後の陽が首筋に汗を滲ませ、蝉の声が辺りに充ちていた。

五、君がいたこと

 赤の軽自動車はF霊園の入り口広場を抜け、時折緩やかにカーブを描いて街へと下る道を走っていた。

両脇には葉を茂らせた並木が続いている。

「これ全部桜だよ」

 良江が言った。桜の咲くころは幻想的な美しさだろう。

 麻衣子はあの墓石の下で四季の移ろいを見守っている。延幸も良江もしばらく無言だった。

「延幸君、お墓の前で随分長く手合わせてたけど、麻衣子に何言ってたの」

 正面を見たまま良江が言った。

「うん……」

 それには答えず、延幸は中一の頃のことや、電話での麻衣子の言葉を話した。

「麻衣子の真っ直ぐなとこ、好きだった」

 大通りの交差点、信号の赤で車を停めた良江が応えた。

「私もね、忘れられないことがあるんだ。麻衣子が亡くなる半年前、一月のことかな。麻衣子と駅前のホテルの喫茶店で会ったの」

 六車線の車道を車が途切れることなく左右に行き交っている。良江は続けた。

「麻衣子、四年くらい前から建売住宅売るご主人の仕事の都合で富士山の向こう側の街に暮らしててね、麻衣子のお母さんと娘さんと四人で。

 だから会うの久しぶりだった。病気だとは聞いてたけど、麻衣子、少しやせたかなっていう感じしかなかった。その時初めて乳がんだって聞かされた。再発だって。

 私なんて言っていいかわからなくて、今はがんでも治る人多いからとか何とか言ってた。

 そしたら麻衣子ね、小さく笑って、私、負けないからって。私なんか感動しちゃって。

 麻衣子は麻衣子だな、ずっと麻衣子だったんだなって思った。

 がんには勝てなかったけど、麻衣子、そういう子だったよね……」

 語尾が震えていた。延幸も震えた。

 信号が青に変わり車が走り出す。

「そうだよな、そういう人だったよな、麻衣子は。何か、励まされるよな」

 車は商店街に入った。よく見れば、道路の両側に昔と変わらぬ商店がぽつぽつとある。

 来年も再来年も、これから毎年、盆休みには麻衣子の墓参りに来よう、と延幸は思った。

 麻衣子の生き方に励まされたかった。

 それだけではない。

 何かもっと大切なことがある気がする。うまく言葉にすることは出来ない。

 ただ一つ言えることがある。

 麻衣子は死んでしまったけれど、確かにかつて麻衣子は生きていたということだ。

 ほんの一部分にしてもその生が、延幸の中に、良江の中に、温かく跡を残している。

「だから、さっき俺、麻衣子に言ったんだ」

「何て」

「ありがとう」

 良江は黙っていた。延幸は自分に語りかけるようにもう一度言った。

「ありがとうって麻衣子に伝えたかった」

 良江は延幸に軽く視線を移し、また正面を向いてから、

「伝わったよ、きっと」

 小さく言った。

「来年も墓参りに来るよ」

 延幸も正面を見たままポツリと言った。

「私も」

 車は左折し駅前通りに入った。

 正面に二階建ての駅舎が見えてくる。

 その背後で箱根連山が横たわる猫のように丸みを帯びた稜線を広げている。振り返ると富士山が悠然と立っていた。

 麻衣子を抱くように。

 それとも麻衣子が守っているのか。

 駅前のホテルの脇で車を降りれば、数日後にはまた東京での仕事が始まる。

 延幸はゆっくりとシートベルトをはずした。