※この連載では、ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』のラスト近くに描かれるクラリッサの意識の流れをたどりながら、彼女の「大切なもの」「恐怖感」「青年への共感」の内実を探っていきます。
全8回です。
第一回はラスト近くの場面からクラリッサの意識のわからなさを考えます。
1
このところ、小説と言えばヴァージニア・ウルフ。
『ダロウェイ夫人』出版百年に無意識に刺激されたのかもしれない。
『灯台へ』に始まって、『船出』『夜と昼』そして『ダロウェイ夫人』。
魅力は、いつも、主人公の自然や街や人物を前にしての恍惚ともいえる感覚だった。
もちろんそれだけではない。しかし、それ以外はなぜ惹かれるのか自分でもわからなかった。
いや、今もわからない。
そんな風にして彼女の作品を読み進め、『ダロウェイ夫人』に来た時、それもラスト近くに来た時、
どういうことだ。
そんな箇所があった。
クラリッサの思考、あるいは意識の内実がはっきりとはわからないのだ。
自宅でのパーティーの最中。ダロウェイ夫人ことクラリッサは若者が窓から身を投げて死んだと聞かされる。
精神科医サー・ウィリアムの妻、レディ・ブラットショウから。夫の患者だった軍隊帰りの青年だ。
クラリッサは、一人小部屋に入って思う。わたしのパーティに死を持ち込むなんて、と。華やかな催しに不吉なものを招き入れた。
ここまでは普通の、常識的反応だろう。
ところがそこからのクラリッサの述懐は、すぐには理解できないものになっていく。
まずは、身投げした本人になり替わってその時をわがことのように感じる。ここまではいい。
クラリッサの想像力の豊かさ、感受性の鋭さを驚きとともに痛いほど感じさせる。
しかしそのあと。青年はなぜ自殺したのかと問うたあと、
「わたしたちは生きつづける……わたしたちは年をとっていく。だけど大切なものがある。
――おしゃべりで飾られ、それぞれの人生のなかで汚され曇らされていくもの、一日一日の生活のなかで堕落や嘘やおしゃべりとなって失われてゆくもの。これをその青年はまもったのだ。
その中心が不思議に自分たちから逸れてゆき、凝集するかに見えたものがばらばらに離れ、歓喜が色あせ、孤独な自分が取り残されるのを感じている
――だから死はコミュニケーションのこころみなのだ。死には抱擁があるのだ。」
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治愛訳 p329 集英社文庫2007年 以下丹治)
死の価値が反転している。不吉なものから、何かを守り伝える肯定的なものへ。
読者は戸惑う。少なくとも私は戸惑った。疑問ではないが。
わからないのは、まずここで言われている「失われていくもの」、青年が「守った」ものとは何か、ということだ。
さらにそのあと。
でも彼は大切に思っているものを抱いたまま飛びこんだのか、と自問し、繊細な人間への医師の抑圧や男権の横暴に思いいたる。
そのあとその言葉は出てくる。
「それから例の恐怖感がある(わたしは今朝も感じたばかりだ)、例の圧倒的な無力感が
――両親から両手でうけたこの人生という贈り物を最後まで生き抜くことが、心穏やかに歩きとおすことがことができないという感じだ。
わたしの心の奥底にはどうしようもない恐怖感が存在している。いまでもしょっちゅう感じる。」(丹治 p330)
クラリッサは、男権と権威以外、生を抑圧するものとして「恐怖感」を述べている。今朝も感じたばかりだと。
では、その恐怖感とは何か。
わからない。
さらに直後、彼女は考える。
「(恐怖感が起こっても……引用者)リチャードが『タイムズ』を読みながらそばにいてくれれば、わたしは鳥のようにうずくまりながら、しだいに生きている感覚をとりもどし、枯れ枝と枯れ枝を互いにこすり合わせて、測りえないほどに大きな歓喜の炎を勢いよく燃えあがらせることもできる。
でもリチャードがいなければ、わたしは破滅していたにちがいない。だけどその青年は自殺したのだ。」(丹治 p330)
恐怖から自分を守ってくれるリチャードの存在。彼によって歓喜を感じられると彼女は言う。だから破滅せずに済んだと。青年は自殺したが、と。ここはわかる。
ところが直後、
「どういうかけかこれが私の不幸――私の恥辱なのだ。」(丹治 p330)
ここで「これ」とは、死なずに済んだこと、青年のように自殺しなかったことと読める。
とすれば、再び価値が反転している。生きていることが不幸、恥辱だと。
死ななかったことが、不幸、恥辱とは、どういうことか。続いて述べることがその内容だろう。
「この深い闇のなかで、こちらでひとりの男が、あちらでひとりの女が沈み、姿を消していくのをながめるのが、わたしに課せられた罰なのだ。
それなのにわたしは夜会服をまとって、ながめていなければならない。わたしはひそかなたくらみによって生命をくすねるように生きてきた。
それが立派な生き方だったとはどうしても言えない。わたしは成功を望んできた。」(丹治 p330)
成功し、傍観し、生き残ったこと、それが彼女の不幸、恥辱なのだ。
男が女が沈んでいく中、自分は安全な場所でそれを見ていただけ。自分の成功のために犠牲にした。そういうことだろう。
だが、その成功は、彼女に安心とその中での歓喜を与えてくれたリチャードとの結婚によっている。
だとすれば、リチャードの存在は、彼との生活は、歓喜を与えてくれるものであると同時に不幸と恥辱をもたらすものということだろう。
さらに、
「すべてリチャードのお蔭なのだが、わたしはこれほど幸福感を感じたことはない。……どんな快楽もこれにはおよばない。
……青春時代の勝利感をなくし、一日一日過ぎ去ってゆく生活のなかに自分を見失いながら、なお日がのぼり日が沈むときに、失ったものを見いだし衝撃的な歓喜をおぼえる。」(丹治 p331)
リチャードとの生活のおかげで、クラリッサは、老いと無常のなかでも、無上の喜びを感じることができた。
しかし、それは他人の不幸を見ているだけの不幸と恥辱の上に成り立っている。その理屈はわかる。
しかし、やはり、恐怖感がわからない。
上の述懐から大切なものを見失わせてしまい、若さを奪うもの、つまり、老いと、淡々とした日常の連なりつまり無常とは言えるかもしれない。
しかし、それだけではないと思えてしまう。
さらに先を観てみよう。
クラリッサの述懐は続く。
そうした衝動的な歓喜を覚えて、若い頃、ブアトンで、おしゃべりをする人たちから離れて、クラリッサは空を眺めるために外に出たことを思い出し、窓辺へと歩いていく。
そして思う。
「あそこにはわたしの一部がある――昔見た田舎の空にも、眠れない夜に見たウェストミンスターの空にも」(丹治 p331)
この空とは何か。空にわたしの一部があるとはどういうことか。喜び、恐怖感とどうかかわるのか。
そして向かいの部屋の老婦人にクラリッサは惹きつけられる。この理由もよくわからない。
「そして空は。厳かな空だろう、と彼女は予想していた。……だけど実際の空は――灰白色の空だった。……新鮮な光景だ。」(丹治 p331、332)。
厳かな空とは。灰白色だったとは。この意味も分からない。
さらにそこから。パーティーで皆が笑ったり叫んだりしている時に、ベッドに入ろうとする老婦人を魅力的と感じ、時計が時を打ち始めた時、
「その青年は自殺した。でも、わたしは憐れんだりしない」(丹治 p332)。
背後にパーティーの喧騒を感じつつ、老婦人が明かりを消したことに驚いた直後、
「あの言葉が脳裏に浮かんできた、もはや恐れるな、太陽の灼熱を。」(丹治 p332)
朝、街の本屋のウインドウに見かけたシェイクスピアの一節を思い出す。あとで見るが、死について考えた後眼にしたものだ。
ということはここでクラリッサは死を想っていたのか。恐怖としての? 大切なものを守るものとしての? わからない。
そして、パーティーにもどらなければ。考えた後、
「でもなんて異様な晩なのだろう!」(p332)
彼女はそう思う。そうやはり異様なのだ。クラリッサにとっても。
さらに異様なこと。
「どういうわけか自分が彼に似ている気がする――自殺したその青年に。
彼がそうしたことをうれしく思う。生命を投げだしてしまったことをうれしく思う。
時計が打っている。鉛の輪が空中に溶けてゆく。
彼のお蔭で美を感じることができた、楽しさを感じることができた。
だけどももどらなければ。人びとのもとへ集わなければ。サリーとピーターを見つけなければ。彼女は小部屋から出ていった。」(丹治 p332、333)
クラリッサは、青年を哀れまないところから、彼に対し、共感、さらにはうれしさ、美、楽しさまでも感じている。
この二度目の青年への共感、うれしさ、美がまたわからない。
クラリッサの意識の流れとでも言うべきものに、私は、戸惑うしかなかった。
まとめよう。
これら一連のシーンは、わからないことだらけだ。
まずは、青年が死ぬことで守ったとクラリッサが考えている、大切なもの、とは何か。
そして、恐怖感とは何か。
さらに空と老婦人を介しての自殺した青年への二度目の共感の内実は何か。
大切なもの、恐怖感、自殺への二度目の共感。それらの内実は一体何なのか。
それらを明らかにすることが、この文章の課題である。
次回は、これらの疑問を考える意味、訳者丹治愛氏の解釈を考えます。
→ダロウェイ夫人の意識へのこだわりと訳者の解釈への違和感——『ダロウェイ夫人』を読む(第二回) | 芸術をめぐって