ミロ「花火」の衝撃の大本にあるミロの考え方を考えていきます。
Ⅳ、ミロの衝撃の源泉
こうして私は、「花火ⅠⅡⅢ」が持つ、衝撃的なまでの力の、依って来るところを考え、
それを明らかにするために、図書館で借りたミロ関連の書籍を読み、過去のミロ展のパンフレット、ミロの画集を、読み、観ていった。
Ⅳ-1、ミロの衝撃の源泉①=「精神の自由」を求める姿勢
まず見えてきたのは、花火の力は、彼の精神の自由を求める闘いの姿勢からくるのではないか、ということだった。ミロは言う。
「私は生まれつき無口で、悲劇的な性格をしている。そして子どものころ、深い悲しみの時期を経験した。今はだいぶ安定しているが、すべてのことに飽き飽きし、人生が無意味に思えることが多かった。理性でそう考えるのではなく、そういうふうに感じる。つまり私は、ペシミストなのだ。(略)/逆に、私が進んで自分に課しているのは、精神的な緊張だ。」(ジョアン・プニェット・ミロ、グロリア・ロリビエ・ラオラ著、大髙保二郎監修『ミロ』「ミロの言葉」p118 創元社2009年。以下『ミロ』と略)。
ペシミストである自分から脱するためにミロは、緊張を求めた。それは自分の性向から自由になるための闘いだろう。
あるいは『対話』の中、
「アカデミックな画風からするとあなたはデッサンが下手だということを承知の上で画家になりたいと思ったわけですか?」
というライアールの問いかけに答えてミロは言う。
「下手にもかかわらずというのではなく、むしろ下手だからこそ私は画家になりたかったのです。なぜかというと非常な努力が必要だったからです。そこには必然的に闘いがあったわけですが、私の人生の場合いつも闘いが私を引っぱって行ってくれたのです。私は画家になりたかったのです、絵に専念したかったのです。もちろん、中途半端なもので満足するわけにはいきませんでした」(p156)。
別の個所でも、
「技巧がなくてよかったと思っています、技巧を持っていないからこそ自分を表現するために自分の内部で反抗しなくてはならなかったのです。容易に仕事ができる自分だったら、こういう激しさも弱まっていたでしょう」(p251)
技巧のなさを逆手にとって、それと闘うことに意味を見出し、画家となっていったミロ。これもまた、自身からの自由を求める姿勢だろう。
『対話』には自由をめぐってもっと直接的な言葉もある。
「……私達(ピカソ、ジャコメッティ、ブルトンらかつての友人達とミロ自身……引用者)は人々により多くの自由を与えることができたような気がします。……精神の自由です。そして精神の自由というものによって新しい視野が開けるのです。」(p96)
ミロが求めたものは精神の自由だった。それは鑑賞者に求めるものであるとともに、自身の求めたものでもある。
さらに『対話』には、ライアールの問いかけに答えたミロのこんな発言もある。
「三千年後に誰かがあなたの絵を見たときを想像してください、何を読み取ってもらいたいと思いますか?」「絵画だけでなく、人間の精神の解放を私が手助けしたことを理解して欲しいです。」(p252)
精神の解放、言いかえれば精神の自由、それに対する貢献への自負。ミロがどれほどそのために闘ったのかがわかる言葉だ。
こうして私は、花火の力の根源に、ミロの精神の自由を求めての闘いの姿勢を見出した。
Ⅳ-1、ミロの衝撃の源泉を探る②=「今、ここ、これ」
さらに、文献を読み進める中で、花火の力は、ミロの「今、ここ、これ」を大事にし、そこに依拠して作品を描いていく姿勢にあるのではないかと思い至った。
「私にとって、物はすべて生きている。このたばこ、このマッチ箱は、ある種の人間よりもずっと強い生命を秘めている。」(『ミロ』p119 創元社2009年)。
すべてのものに生を見る目。それはすなわち「今、ここ、これ」から出発しているからこそ可能になるだろう。あるいは逆にすべてのものに生を見るからこそ、その一つ一つの現在、すなわち「今、ここ、これ」から出発するとも言えるかもしれない。
『対話』にはこんな発言もある。
「かたつむりにあなたが特権的な価値を与えるとき、それはその外見が美しいからですか、それともそれの持つ豊かな象徴性によるものですか?」というライアールの問いに対し、
「いや、象徴性とは関係ありません! 私が動物や昆虫が大好きなのはご存知でしょう。」(p75)
ミロの描くものは、何かの象徴ではなかった。まさにそのもの、「今、ここ、これ」こそが重要だった。
さらに制作も同じである。
「平らに置いてあったカンバスの上で、ベンジンを使っていくつかの筆を洗っていたのです、こういう具合に(と腕でその動作をする)。このみずみずしさと、この激しさを損なわないために、私は絵にはあまり手を加えるつもりはありません。この、呼吸する線のみずみずしさを押しつぶしてはいけません。それは心臓の鼓動のようなものです。」(p52)
作品に対してもそのものを大事にする姿勢が見て取れる。ミロは制作の場合も「今、ここ、これ」に依拠していた。
ミロは、作品を何かの象徴とすることなく、今ここで描いたそのものとして、今ここで発展させていく。すなわち「今、ここ、これ」の重視である。
そしてさらにこの点が、ミロが日本に惹きつけられた理由でもある。ミロは言う。
「私は若い頃から日本の浮世絵にとても興味を持っていた。そして、水滴、小石、一握りの砂のような、一見意味がないものに対する日本人の独特な捉え方に感銘を受けた。」(「私の」p18)。
意味がないように見えて確実に存在する「これ」への態度への共感。ここには「今、ここ、これ」に目を注ぐ、日本人に通底するミロの視線が現れている。
同じことは、ミロの生きる姿勢にも言える。『対話』の中で、ライアールは聞く。
「マルローはピカソに概念や意図を見出していますが、あなたは完全に瞬間に生きていると言っていると思いますか?」。対してミロは瞬時に返す。
「そのとおりです」、と。
瞬間に生きること。これは、ミロの生きる姿勢であると同時に、絵画におけるそれでもあるだろう。
Ⅳ-1、ミロの重視したもの、二つの関係=「精神の自由」と「今、ここ、これ」
では、今考えてきたミロの「花火」の衝撃の源泉にある二つ、「精神の自由」と「今、ここ、これ」を重視する姿勢とはどのような関係にあるのだろうか。
「今、ここ、これ」の重視とは、では、いったい「今、ここ、これ」という個の何を大事にすることだろうか。結論的に言えば、そのものの、個性の重視と言えるのではないか。
対象の、伸びようとする方向、発展しようとする方向を大事にすること。
そのものの発展しようとする方向、それこそが自由なのではないか。
そしてそれを受け止め援助すること。そのことがまた翻って作者の自由ともなる。
そういう関係ではないか。そういう関係として「精神の自由」は「今、ここ、これ」と繋がる。「今、ここ、これ」を重視することは対象の自由を尊ぶことであり、それを通して自らの自由を開花させることでもある。
次回は、ミロの考え方への共感について書いていきます。
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