これまでのミロ解釈について、違和感を語り、自身の見方を考えます。

Ⅺ-1、これまでのミロ解釈への違和感

 そしてこの点については、私が触れた限りでだが、先人の解釈に違和感がある。

 まず、いくつかを引用してみよう。

「ミロといえば、その作品に付きまとう、一見天衣無縫で幼子のような夢想的世界のためであろうか、……穏やかな存在に映る。……ミロの芸術はけっして平凡でも、プリミティヴなものでもない。いつの時代をとってもそれは深刻な葛藤と激しい闘争、たゆまぬ探求の結晶なのである。」(ジョアン・プニェット・ミロ、グロリア・ロリビエ・ラオラ著、大髙保二郎監修『ミロ』創元社2009年「監修者序文」p1)。

 幼児性プリミティヴと同じ方向でとらえてはいるが、それは夢や穏やかさ、平凡なものと同じ方向、仮象として語られ、それに葛藤、闘争、探求が本質として対置されている。

 あるいは、

「日本では、ミローといえば、黄、青、赤、緑などの明るい色面が黒い線で輪郭づけられ、連結されて心地よいリズムを奏でる作品が好まれる。……ミローは、単なる20世紀の夢の使者ではなく、新しい芸術の可能性を飽くことなく追究した革新家でもあったと同時に、この腐敗し切った世紀の告発者でもあったのである。」(バルセロナの美の天才 ミロ展 マーグ・コレクション1991~1992 カタログ 神吉敬三「ミロー芸術の秘密――伝統と風土の摂理p18)。

 ミロ夢の使者として日本で好まれるが、実は革新家、告発者でもあったとされる。日本で好まれるということは、ミロは夢の使者でもあると捉えられているとみていいだろう。

 みられるように、これらにおいては、私の言葉でいう暴力的なものそれ以外の力対立的にとらえられ、その上で、前者、すなわち暴力的なものを、ミロの本質としているように見える。仮象か一面化の違いはあるが、ミロに幼児性を見たブルトンの視点に乗って、それがミロの本質ではないとしている。本質は闘争、私の言葉で言えば暴力的なものだと。

 なぜ幼児性対立させて暴力的なものミロの本質とするのか。

 そうした発想は、実は、暴力を力の主要なものとする、近代の発想の枠内にいるのではないか。

 Ⅺ-2、ミロ=多様な力

 ミロの作品によって私が受け取ったのは、似て非なるものだ。もう一度書くが、逃避・空想・幼児性・プリミティヴ自体がそのままで力なのだということ。暴力も当然力だ。それを感じさせる作品もある。しかし、それらは、ミロの作品の中の様々な力の内の一つ、しかも少数でしかない。

 力という概念を、暴力的なものから一見弱くみえるものも含むものへと解放すること。いや、前者を後者で包むこと。前者を後者の特殊な場合とすること。それがミロの作品が私に迫ったことなのではないだろうか。

 いや、ミロ自身が言っているんだ。そういう意見もあるだろう。確かに彼は「人に衝撃を与えたときはいつもうれしいです」(『対話』p179)と言う。

 しかし、作品は作者を超える。少なくとも作者の意図を超える。その言い方が不遜なら、こういってもいい。ミロの言う衝撃の中には、暴力としての力以外のものも含まれていたのだと。例えば〈星座〉に、暴力としての力をみることができるだろうか。私には見えない。

 だから惹かれなかった、その可能性はある。しかし、今は惹かれる。それは、そこに線、面、形、色を通して逃避、空想、幼児性、プリミティヴを感じられるようになったからではないか。

 そしてそれはまさに魅力、人を魅するなのではないか。何よりそれは浮遊のような精神の自由をもたらす。

 この時私の感性は、やはり変容し始めている。暴力以外のものを一つの力としてとらえられる感性に。そういっていいのではないか。

 それは、例えば私の仕事、生徒を前にして、正義を振りかざす暴力的な指導から、ケアの対象としてみて接する、その姿勢の変化に対応していると思う。

 ケアの対象としてみるのは、目の前の生徒、つまりは「今、ここ、これ」であり、何に向ってのケアかと言えば、それは生徒の個性の伸長、言いかえれば自由のため、「精神の自由」のためである。そしてそれを通しての自身の自由。つまりは、ミロの絵画への姿勢と通底する。

 あるいはまた科学主義からの脱却とも対応する。対象を量と法則でのみ見、個を裁断する見方から、質と個々の動きとしてみる見方とも。ここでも肝心なのは、「今、ここ、これ」であり、個々の対象の自由であり、それをうけたこちら側の自由でもある。

 また法則や物語や正義によって、を抑圧してしまうことなく、「今、ここ、これ」「自由」を重視する社会科学の在り方にも通じる。

 そして姿勢だけでなく、何より作品それ自体が、様式という正義からの解放、暴力という力からの解放を、感性のこととして、感性の変容として、私に促している。

次回は、以上の感性の変容を踏まえ、ミロの「花火」をもう一度考えます。

皆さんは、ミロの力をどこに見ますか。

コメントなどいただけると嬉しいです。