ミロへの共感からかえって行き詰まり、自身の感性の囚われに気づくというミロによる二度目の衝撃とその内容を考えます。

Ⅵ-1、ミロをめぐる行き詰まり

 私が大切にしてきたものが、「今、ここ、これ」「精神の自由」なら、ミロの芸術は、自分と同じ方向を向いている、同じものに依拠している、そう思えた。

 自分の問題、自分の現場とも絡んで、ミロの、一番目の衝撃からの考察は順調であるかに見えた。

 しかし、実は、ここから行き詰まりが始まったのだ。

 「花火」からの衝撃、その力を考えるために、私は、当日観たミロの他の作品との比較をしてみようと考えた。

 「花火」だけ、なぜあれほど衝撃だったのか、と。

 裏を返せば、「花火」以外の作品には、なぜ魅力を感じないか。

 もちろんそれはそれでいい。というか、仕方がない。が、一方で、なんとも言えない虚しさが私を捉え始めた。

 ミロの言葉から彼の「精神の自由」を重んじ、「今、ここ、これ」から出発する創作を知ってきて、それらの一貫した追求である作品群を目にしながら、それらを感じたのが「花火」だけということ。他の作品はつまらなく「花火」だけに魅力を感じたという事実。

 そこから「花火」について仰々しく論じることは、ミロの作品群を前にして、あまりに狭く一面的ではないか。そういう気がしてきたのだった。

 

もしかすると、すでに読んでいて、引用もしてきた『対話』の中のミロの言葉が、どこかで影響を与えていたかもしれない。

「……私の好きな人の中で、たとえ私のしていることに全然惹かれない人がいるとしても、その人が意地悪だとは私は思いません。仕方のないことです、その人はただ心を打たれなかったのですから。しかし、私はある種の批評に傷ついたことはあります、意地が悪いというだけでなく、知的な怠惰が伺われるものにです。(『対話』p143)。

 知的な怠惰

 自分のことではないかと、記憶の片隅にあったかもしれない。

 自分のそうした感性を晒すことが恥ずかしいというのではない。むしろ、その程度の感性なら、その感性からの文章なら、書く意味もない、そう思えた。

 行き詰まり。

 気持ちは暗く沈んだ。

 Ⅵ-2、転換=ミロの「花火」と他の作品との違い

 しばらく落ち込んだ。書くのはやめようか、とも思った。が、それはそれでまたミロの言葉で言えば知的怠惰だ。「花火」だけを称揚することも知的怠惰、書くのをやめることもまた怠惰。どうすればいい。

 何日か逡巡していた。

 が、数日して、ポッと閃いた。

 では、花火と他の作品との違いは何か。それを考えてみようと。

 いわば、メタの視点に立ったのだ。自分の行き詰まりを対象化する視点に。

 ①構図=白を背景にした山と滝。

 「花火」には水墨画と思えるほどの構図があった。白を背景とした山と滝。対して、他の作品、たとえば、彼の代表作「星座」には、そうした構図は見えず、ただ漫然としている、そう感じた。

 ②筆致=殴りつけこすりつけた太い黒。

 花火の力強いタッチ。星座には、のびやかさはあったものの、ただそれだけ。

 ③力=衝撃力。

 花火には圧倒的な力を感じた。殴りつけられたかのような。しかし、他の作品にはそれはなかった。感じなかった。「星座」にしても絵としては小さく、迫ってくるものはなかった。

 こうして並べて整理し頭の中で転がしていた。そして、ある時アッと気づいたのだった。

 Ⅵ-3、ミロによる二度目の衝撃=囚われへの気づき

 私の中には決まり切った様式偏重の美意識暴力のみを力とする力観が巣食っているのではないか。

 ミロによる二度目の衝撃だった。 

 私の中にそれらが巣食っているとして、では、そこから何が導かれるか。

 その二つの観方は、じつはまさに西洋近代そのもの、せいぜいその反転したものでしかないのではないか。その意味では、私こそ、私の感性こそ、西洋近代に縛られているのではないか。西洋近代に縛られた意識で、ミロを裁断していたのではないか。

①様式化した美への囚われ 

 花火が山水画のようだと言うのは、もちろん西洋ではない。が、そこには様式化した美がある。決まり切った見方のひとつ。

 しかも私はそこに東西融合を見ていた。西洋のミロが日本を取り入れている、と。それはそれでいい。しかし、ミロの他の作品には反応せず、「花火」だけに衝撃を受けたのは、西洋に対する対抗としての東洋・日本、西洋による東洋の取り込みという形の融合をみていたのにすぎないのではないか。西洋のミロが日本を取り入れてくれた。つまりは西洋基準ミロを見ていた。あるいは、日本が西洋に影響を与えた。劣者が勝っているものに侵入したというような意識。

 そこには西洋基準での様式化した美のみに反応する自分がいたのではないか。

 

 ②力=暴力という囚われ

 筆致と絵自体の力という点では、迫ってくるもの、衝撃を与えるものにのみ反応していた自分がいて、それはまさしく、暴力的なものへの反応といえる。

 暴力的なもの一般が悪いというのではない。しかし、暴力とは無縁に見えるミロの他の作品には全く反応せず、暴力的な「花火」にのみ感応するのは、「知的な怠慢」というにとどまらず、自身の感性の偏重、いわゆる力、あえて言えば、支配的なものへの傾斜があるということではないか。それは例えばケアの姿勢とは相容れないだろう。何より暴力を感じさせない多くの作品を生んだミロに対する誤解であり、さらに言えば、裏切りとさえいえるかもしれない。

 自分の中にある暴力的なものは、歴史貫通的に存在する男権主義、支配欲にとどまらず、近現代、世界を覆っている。対自然ではその支配、グローバルには植民地主義、人種主義(大澤真幸『西洋近代の罪』p265 朝日新書2025年)、知性の分野での科学主義(普遍による個の抑圧)、そうした西洋の方向の影響を受けているのではないか。

 私は暴力的なものに囚われていた。西洋に囚われていた。そこからミロを裁断していたのではないか。

 次回はミロ再発見の可能性を感じ、それを確かめるため、ミロ展を再訪するまでです。

 あなたは自分が西洋近代に囚われていると思ったことはありますか。

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