ミロ再訪で変化はあったか。そして「花火」の前哨としての作品群。
Ⅷ-1、ミロの〈星座〉が私を捉えた瞬間=ミロの「花火」以外への反応
ミロ展再訪によって花火以外の絵が私の中に飛び込んできた、となれば、話はドラマティックだ。
しかし、そううまく事は運ばない。かといって、前回のように、作品が自分の外を通り過ぎていくだけ、というのでもなかった。が、それは、この一か月、「花火」をめぐってではあったとしても、ミロと付き合ってきたからかもしれない。感性というより知性からかもしれない。それでも変化には違いなかった。
自分が試されている微かな緊張感の中で、一点一点対峙していく。
畝の表現に浮世絵の影響がみられる「シウラナの小径」。同時期の「シウラナの教会」にはセザンヌの影響もあるようだ。続いて細密画風の風景画。キュビズム風の自画像。ここまでは、前回も今回も、迫ってくるというほどではないが、鑑賞の対象だった。ただ外を通り過ぎていくのではない。
パリ時代になって、作風は一転する。いわゆるミロが現れる。抽象的、というより、一見、幼児的な。
それは、ナチス、フランコの強権政治の時代、それらに異を唱えたミロにとっては抑圧の時代になっても変わらないように見える。手法や対象に違いはあっても。
そして、〈星座〉を観ている時それは来た。シリーズの一つ、青を背景とした「カタツムリの燐光の跡に導かれた夜の人物たち」、――チラシ表の作品、かつては何の興味も引かなかった――を観ている時だった。(*1)
(*1)「ミロ展2025」、あるいは「ミロ星座」で検索してみてください。)

①自由な線の発見
まず線。青を背景に、対象を縁取る線、対象から伸びた線。それらは緩やかな曲線となって画面にたてに横に斜めに延びている。その運動に身をまかせていると、正確には、視線を任せていると、からだが自由にのびやかになっていく。そしてその線の運動が描く、圧政を表しているのだろう、グロテスクな動物たちが、その自由な動きの中に埋もれていってしまう。
この線に様式はない。西洋近代の遠近法的なものからも、水墨画からも、セザンヌとかキュビズムとかそういうものからさえも全く自由だった。様式から離れた美がそこにはある。様式から離れたミロの線に美を、美が言いすぎならのびやかさを感じている自分がいた。
②力としての逃避・幻想の発見
もう一つは、力としての逃避。展示の表題、「第三章 逃避と詩情 戦争の時代を背景に」そして音声ガイドから学芸員高崎靖之氏の解説から、これらの作品がスペインでの全体主義者フランコ側の勝利、第二次大戦前夜に描き始められ、避難もする中、そうした現実からの逃避として完成されていったと知った。そして解説では、逃避の先に幻想によって希望を見ていた、というようなことが言われていた。ハッとした。そうか、逃避も力なのだ。少なくともそうなりうるのだ。
さらに、谷口江里也編・訳・著、ジョアキン・ゴメス写真『ミロの言葉』(未知谷2025。以下『言葉』と略)には、ミロの言葉としてこうある。
「現実が持つ完結性から解き放たれて/新しい形と/幻想的でありながらも/生命力と確かさに満ちた本質によって/新たな現実を創り出すこと。」(『言葉』p150)。
幻想であっても生命力と本質を捉えれば新しい現実になる。〈星座〉の場合、幻想によってミロは未来を見た。抑圧からの解放という生命力と本質を見た。幻想もまた力なのだ。
自由な線による美、力としての逃避・幻想、これらは、様式としての美、暴力的なものという近代を乗り越えさせるものなのではないか。
だとすれば、様式を超えた線と暴力以外の力に身をまかせて、浮遊感に漂っている時、私の感性は、近代を超える形で、なにがしか、変容を受けているのではないか。
Ⅳ-2、「花火」の前哨
再訪で印象深かったのは、もう一つ、1974年の「花火」を前にしたいくつかの作品に、その前哨のようなものが見られたことだった。
例えば、「花火」のある二階展示室の前、一階の最後、「第四章夢のアトリエ」にある1960年作「絵画Ⅱ/Ⅳ」。からだを使って絵筆から激しく黒を飛ばし偶然にゆだねた作品はアメリカ抽象表現主義的であり、まさに「花火」の前哨だ。
また、同じ展示室、1961年から67年に取り組まれた「ふたつの惑星に追われる髪」は、1966年の訪日を挟んだ作品。髪を表してるのだろう、数個の滝のように下るオレンジの線は、色こそ黒ではないが、タッチとしては「花火」のそれを思い出させる。
さらにまた同じ部屋、1968年「太陽の前の人物」。赤、青に飛び散る線。三角の底辺であり四角の上辺である黒い太い線からは、十センチ程度、画布の途中までだが、黒が垂れ落ちる。
こうしてみてくるなら、「花火ⅠⅡⅢ」が、突然の作ではなく、1966年と1968年の二度の日本訪問を挟んだミロの中で、訪米とも相まって、技法が熟成され、そして現れたのだということがわかる。