「精神の自由」と「今、ここ、これ」を重視するミロへの共感についてです。
Ⅴ、ミロの姿勢への共感
精神の自由と「今、ここ、これ」を重視するミロの姿勢に共感した。仕事柄、また、世界観の上でも。納得し、励まされた。「今、ここ、これ」からの出発というのは、仕事で、また世界観で、自分が求めてきたことそのものではないか。
Ⅴ-1、ミロへの共感①=仕事上
仕事柄共感したとはこういうことだ。
三十年以上、塾で国語を教える仕事に携わってきた。初めは集団塾。この十年は個別塾。個別に移ったのは、右肩の凝りがひどく、板書ができなくなって、利き腕でない左手で書くようにし、見栄えが悪くなり、板書の速度も遅くなって、生徒による授業アンケートの数値が落ちたからだった。それまでもたいしていいわけではなかった。が、続けていくには十分の数値だったのが、平均をわずかに下回るようになって、後期授業の最後に学務課から担当者が現れ、このままではまずい、要は、あと一年ダメだったら首だと、言い渡されて、翌年度は角番、右肩はどうにもならず、左手で書いていたから、数値の上昇は望めず、そのプレッシャーからだろう、アンケートに振り回されるのが馬鹿らしくなって、辞めた。
しかし、その二年前から、同じ塾の個別質問コーナーで週二日、三時間ずつ、質問に答えていて、生徒の顔は見えるし、成果もわかる、面白かったから、別の個別塾に登録し、翌年、一人の生徒を担当し、そこそこのところに受かり、翌年担当の生徒が偏差値を二十延ばし難関校に受かって、次第に生徒数が増え、この十年やってきたのだった。
十年教える中で、プロが教える学費の高い個別塾に来るのは富裕層の子女、甘やかされた子もいて、ウンザリすることもあった。それでも一人一人と丁寧に接してみると、恵まれているのはたしかにしても、彼ら彼女らには、その生徒一人一人の個性と思い、目標があって、そこに向き合っていくことの大事さを感じるようになっていた。今目の前にいる生徒を大切にすること。言いかえれば「今、ここ、これ」からの出発。ミロと同じに思えた。
Ⅴ-2、ミロへの共感②=世界観
世界観上の共感もあった。
受験の国語を教えているせいだろう、近代科学への疑いとでもいったものが、自分の常識のようになっている。現代文は、近代批判の文章が圧倒的だから。現代の課題を克服するための、それは一つの現れだと思う。
加えて、政府主導の、というか財界主導の理系重視、文系軽視への反発もあって、科学主義というか、特に自然科学の方法を何より重視する考え方、いや唯一とするに近い思考、さらに言えば世界観に反発があった。
自然科学は、法則の発見を第一義とする。そしてそれは数式で表される。発見されれば、同じ条件の下でなら、「いつでも、どこでも、誰にでも」妥当する。いわゆる普遍。法則と量化の世界。
それはそうだ。その力も、有用さも、全く認める。しかし、それが世界だ、世界の全てだ、と言ってしまうのは違うのではないか。そうしてしまうことで、大事なものが抜け落ちてしまうのではないか。あるいは抑圧してしまう。
それは端的に言えば「今、ここ、これ」のみに妥当すること、普遍に対する個別といえる。特殊でも足りない。個別と固有。
自然科学主義は、個別と固有を認めず普遍と量に還元することでそれらを抑圧する。
科学がいらないというのではない。その成果には十分に謙虚になりつつ、利用もしつつ、しかし、個別と固有への視点も持ち続けること。あるいは、個別のためにこそ、普遍はあるのだと、肝に銘じておくこと。
その世界観が、自分の依って立つ基盤だと考えるようになっていた。その応用であり現場でもあるのが個別塾だった。「今、ここ、これ」の重視。ミロ。
Ⅴ-3、ミロへの共感③=社会科学
同じことは社会科学をめぐっても言える。社会あるいは歴史の法則といったものを掲げることで、個別を抑圧する、その機能を、社会科学が果たしてこなかったとは言えない。
また「大きな物語」の終焉による「小さな物語」の重視という視点も、それが「物語」であることで、何らかの一般化をまぬかれないことも、ほかならぬ社会科学によって指摘されてもいる。意外なもの、他なるものの発見、重視が言われる。普遍と量への一面化への批判として質的研究(*1)とか物語論の精緻化(*2)とか生徒に根差した学力論(*3)など。
中でも、私の仕事、また、考えとかかわって、フェミニズムから提出されている、正義の倫理からケアの倫理へ、という新たな主張は、まさに西洋近代からの転換を示している(*4)。
西洋近代の社会科学は、自立した存在のみを権利主体として、その立場から、人間を裁断してきた、正義の倫理である。しかし、人は自立までに誰でもがケアされる存在であり、老いてまたケアを必要とする。そればかりでなく実は自立している最中でも何等かの形で誰かからケアしてもらっているのだ。そしてそのケアを担ってきたのは、多く女性だった。さらには、権利主体の中には白人しか含まれなかった。つまり西洋近代のいう権利は、ほんの一握り、自立した白人男性のみを想定し、子供、老人、女性、非白人を排除してきた。
そうした狭い権利ではなく、誰でもがかつてはそしていつかは、いや今も、必要としているケアを倫理の軸に据えていく必要がある。
その主張は、私の仕事にダイレクトに響いた。生徒を、合格から見た不十分な存在と見て、合格のためという正義を振りかざし不十分さに怒る自分から、合格という狭いものに向かってにせよ、そこに向けてケアされるべき存在として見ること。
いいかえれば、生徒の「今、ここ、これ」から出発すること。そう私は考えるようになっていた。
そしてそれは、生徒の自由を重視するからの立場と言える。生徒が伸びたい方向、すなわち自由に手を貸すことで、自らも自由になる。
「精神の自由」と「今、ここ、これ」の重視というミロの姿勢は、私が大切だと考え始めていたそのことと重なる。私は大いに励まされた。
(*1)井頭昌彦編著『質的研究アプローチの再検討 人文・社会科学からEBPsまで』勁草書房2023年)
(*2)浅野智彦『自己への物語的接近 家族療法から社会学へ』ちくま学芸文庫2025年)
(*3)今井むつみ『学力喪失 認知科学による回復への道筋』岩波新書2024年)
(*4)岡野千代『ケアの倫理 フェミニズムの政治思想』岩波新書2024年)