ミロ再訪による、美意識と力観についてさらに考えます。今回は美意識について、です。
Ⅸ、ミロによる美意識と力観の再考
ミロ再訪は、ドラマティックな自身の感性の変容を証立てはしなかったにしても、私に取って、変容の可能性を感じさせるに十分だった。様式による美に変わって線による美、暴力的な力ではなく力としての逃避・幻想を見出した。
そして、その後も、今回買った「カタログ」を読み、観ながら、さらにミロへの接近を深くするきっかけとなり続けた。
二度目の衝撃だった、二つのことについてさらに考えた。
様式に囚われた美意識と暴力に囚われた力観という二つから、線による美と力としての逃避・幻想を発見した上でさらに。

Ⅸ-1、ミロの、様式を超えた美としての線、加えて面、形、色
一つ目、様式に囚われた美意識に対するものとして、というよりミロの絵の理解に資するものとして、その線に着目したが、カタログを見、考えを進める中でさらに新たなものが加わった。
面と形と色。きっかけはカタログの文章だった。
「線と色彩に見事な技術を示し、驚くべき詩的強度に到達している」(ミロ展カタログp16)。〈星座〉に対するピエール・マティスの評。アンリ・マティスの息子、美術商である彼は、ニューヨークの自身の画廊で、1945年初めて〈星座〉シリーズを発表し、この言葉を残したのだった。
始めは、違う、ミロの特徴は線だ、と反発した。が、色も意識してカタログみると、確かに、原色に近い赤、黄、青、そして黒が画面の中で際立っているものが多い。また少しだけミロの作品に対して感性が開かれた気がした。
さらにカタログを見ていた。と今度は、背景としての面がクローズアップされてきた。パリに出たころには背景としての面を重視した作品もあった。
そしてさらに形もまた独特だ。どの作品でも対象は、異様にしかしどこか滑稽にデフォルメされている。
線に加えて面と形と色。それらに着目しながらもう一度〈星座〉「カタツムリの燐光の跡に導かれた夜の人物たち」観てみた。
①対象を縁取る線、対象から伸びだした自由な線。
これについてはすでに書いた。それらは緩やかな曲線となって縦横斜めに延びている。その運動にこちらの視線だけでなく、からだもこころも自由にのびやかになっていく。その線の運動は、暴圧を表すかのようなグロテスクな動物たちを、その自由な動きの中に埋もれさせてしまう。
②デフォルメされた形。
そしてその線が縁取るグロテスクな動物たちは、四角や三角にデフォルメされ、周囲に浮かぶ四角、丸、三角の形と相俟って、滑稽なものに見えてくる。
③面としての背景。
澄んだ夜空のように深い青。暗い中にもその先の明るさを感じさせるかのようだ。
④赤、黄、青、そして黒の色。
浮遊する三角や四角、楕円の赤や黒。星やそら豆の形をした図の一部の紫に近い青。それらの色は画面全体のアクセントとなってやはり愉快ともいえる印象を与えている。
他の〈星座〉二つもその視点で観てみた。同じだった。曲線や渦巻きを含む線が、不気味な動物たちをデフォルメして描き、それらを滑稽に見せて、背景つまり面こそ褐色、カーキと違うが、点々とした青や赤の図形とともに、のびやかに広がる。
そう気づいて他の作品を見直し、線と面と形と色に視線を任せ、身をまかせると、多くに不思議な浮遊感や遊びのようなものが感じられる。体と心が自由になっていく。
様式に囚われず、ミロの作品を観るコツとでもいったものが分かった気がした。