ミロ再発見の可能性を感じ、ミロ展再訪までを語ります。

 Ⅶ-1、ミロ再発見の可能性=ミロ〈星座〉の想起と揺らぎ

 私は様式化された美暴力的な力に魅力を感じていた。「花火」にそれを見ていた。

 では、それ以外の作品、例として挙げた「星座」には何があるのだろう。

 「花火」に感じたものを否定してみる。

 と、遠近法や山水画の様式から自由な美暴力的でない力、ということになる。

 私の脳裏に、青を基調としたミロの絵、おそらく星座の一つ、チラシに掲載されていたものだろう、それが瞬くように浮かんだ。四角や三角、丸の人物、ものたちが、浮遊したり踊ったりしているような絵。(*1)

 脳と胸が心地よく揺らぐ。今までは目の前をただ通り過ぎていくだけだったのに。自分の中に何かを引き起こしてくる。

 もしかすると、ミロが、「花火」以外のミロの絵が、わかるかもしれない。様式と暴力という近代の囚われが取り払われたとまではいわない、しかし、緩んで。

 画集をさっと見た。資料として図書館から借りていた『岩波 世界の巨匠 ミロ』(岩波書店1992年)を開いて、素早くページをめくりながら作品を観ていった。

 細密的な「農園」のあと一気にシュールになる「耕地」、そこからのいわゆるミロの作品群が、一見子供の絵のように見えなくはない絵が、やはり、いままではただ目の前を通り過ぎていくだけだったのが、微かだが目を圧する、からだの中に入ってくる、そんな感覚があった。

 しかし、そこまで。具体的に何がどう緩んだのか、それはわからない。ダメだ、本物を観なくては。もしかすると、私の感性は変容していくかもしれない。近代を超えて、近代の枠組みを離れて。近代を相対化して。

 ミロ展は七月六日まで。再訪したい、いや、しなければならない。

 (*1)「ミロ 星座」で検索してみてください。


Ⅶ-2、試験としてのミロ展再訪

6月11日、雨。梅雨入りをしたのだったか。例年よりずっと早く、なし崩し的に。梅雨が明けた爽快感を感じる間もない。自然破壊のしっぺ返しのひとつか。

 上野駅について公園口の改札から向こうを見ると、広がる開けた敷地を霞ませるほどに強い雨が降っていた。雨脚が弱まるのを待つか。降り方がどこか気まぐれの突然さにみえたから、ふとそう思った。が、もう三時を回っている。開館は五時半まで。ゆっくりはしていられない。改札を抜け、折り畳み傘をさすと、すでに雨は弱まっていた。助かった。やはり一時的なものだった。美術館に向かう。

 弱まったとはいえ雨音が折り畳み傘にくぐもって聞こえる。ぎゅっと握った柄がぐらつく。地下へ向かう長いエスカレーターで会場へ下った。

 そうやって、私のミロ再訪は始まった。

 今回は音声ガイドも装着した。何がヒントになるかわからない。しかし、一番の頼りは、ほかならぬ自身の感性だった。

 理屈ではなく感性で、ミロ「花火ⅠⅡⅢ」以外のどれかに反応できるかどうか。反応して、作品が私を打つか、いや打たなくてもいい、作品が私の中に入ってくるか。

 だとしたら、それは、私の感性がこの間の考察の結果として、なにがしか変容したことを表しているかもしれない。

 さらに、少しでも変容した感性によってもう一度「花火」に相対した時、私の感性は、感覚は、意識は、どういう反応を示すか。

 それを見届けること。そしてそこからこのブログを進めること。それが今回の目的だった。繰り返そう。私が課した私に課せられた試験。

 ①「花火」以外に私は反応するか

 ②再び「花火」に私はどんな反応をするか。 

次回は、ミロ〈星座〉の再発見と、「花火」に向かったミロの前哨を語ります。

あなたはミロのどの作品が好きですか。

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