Ⅳ-1、勘違いの悲劇への共感

 何度見返しても訪れる新たな感動、それは何よりも、薬師丸ひろ子演じるヒロイン静香の、生き方に触れることだった。

 彼女は、女優になるため、名声を得るため、自らの人生を、そこでの経験を犠牲にした。特に恋愛にかかわることを。

 一つ目は、作品冒頭、経験を広めるため劇団の若手スター淳と関係を持ったこと。

 二つ目は、準主役の座を射止められなかった自分を励ましてくれた昭夫と、相手は真剣だとわかっていながら、付き合う気もないのに一晩を共にしたこと。

 三つ目は、言うまでもなくスター女優翔の不倫相手の腹上死の替え玉になったこと。

 すべては勘違いから始まった。

 田舎に来る芝居来る芝居全部観て、スタニフラフスキーの『俳優修業』を買い求め、経験を充実させることという意味を取り違え、名声を求めて、実人生を手段とする、その、生き方、いわば勘違いの青春に、私は、私を見るようになっていったのだと思う。

 私自身のことで言えば、名声を求めて、何かを手段としたということは、自分にはないと思う。名声を求める、その手前の段階で、挫折してしまった。

 しかし、勘違いはあった。大いなる勘違いは。

 高校である程度成績がよく、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読みふけり、「生をうるは事をなすにあり」とか何とか嘯いて、一浪したが、通った東京の小さな予備校で成績上位者になって、自分には何でもできる、そう思い込んだ。

 根は気が弱く、今の言葉で言えばHSP気味で、大きなことなどできる資質ではないのに、どんな世界ででも活躍できると思い込んだ。大学に入って、いきっていて友達もできず一人になってしまった。

 そこからの反動、一発逆転を狙って、政治活動に飛び込み、もちろん、正しさを確信したからではあるが、人一倍打ち込み、疲れて、引きこもって、仲間を裏切ったと自分を信じられなくなった。

 自己への不信感はぬぐえず、塾の非常勤講師として生計を立て、何とか生きられうようになっていったその折々『Wの悲劇』を観てきた。

 等身大の自分を受け入れられるようになったころ、静香と自分との共通点に気づいた。

 勘違いで挫折した静香の人生が、形は違うが、勘違いから自己不信に陥った自分のそれまでが思い出された、静香がいとおしかった。

 だから、本当の自分に気づいて、人生を、女優をやり直そうとする静香に、薬師丸ひろ子に、エールを送らざるを得なかった。それは、自分へのエールでもあったから。

 Ⅳ-2、平凡への共感

 新たな感動の二つ目は、今書いたことの裏面ともいえることだが、平凡な子としての静香への共感だった。

 静香は、ごくごく平凡な人間だった。誰が見ても女優志望には見えない、本当はとても内気な子。

 わたしもそうだった。普通の人間。大それたことをやるようには見えない。まじめにコツコツやるだけ。

 外からの影響で名声を、ことをなすことを夢見、挫折した。

 平凡と、そのことへのいら立ち。

だからこそ何かできるのではないかという思い。

しかし、やはり平凡でしかないことへの落胆と安堵。

そうしたことへの共感があった。 

 勘違いと平凡さ、その二つへの共感が、自分にとって、「Wの悲劇」の感動の大本に確かにある。

 しかしそれだけではない。

 映画自体のことがある。

 次回はそれを考えたい。