夢が壊れた僕は、部屋に閉じこもり、底冷えのする日、一週間ぶりに喫茶店に向かうが・・・。

👉第一回:小説 喫茶店の話 #1 新しい店と僕 | 芸術をめぐって

👉第二回:小説 喫茶店の話 #2 女の子     | 芸術をめぐって

👉第三回: 小説 喫茶店の話   第三回 ママの指 | 芸術をめぐって

👉第四回:小説 喫茶店の話    第四回 壊れた夢 | 芸術をめぐって

(五)雪の日に

 それから僕は暗い気持ちで何日かを過ごした。

 例の喫茶店にもいかなかった。

 潤んでいるように見えたママの目をもう一度見たくなかったのかもしれない。自分のことを話してただ恥ずかしかったのかもしれないし、そんな余裕さえなかったのかもしれない。

 と言っても。これはあとでわかったことだが、もし僕が行きたかったとしても、そこにはもう行けなかったのだ。

 一週間ほどして、少しずつ、僕は元気を取り戻していった。

 これから先何をしようか、どうしようか、そんなことは全く考えられないままだったけれども。

 僕は久しぶりに駅の辺りを歩いていた。どんよりとした雲が垂れこめて、底冷えのする夕暮れだった。

 古本屋に入ったり、レンタルビデオ店をのぞいたり、それまでの一週間何に対しても興味が持てなかったときに比べて、そうしていることが気晴らしにはなった。

 久しぶりに例の喫茶店にも行きたくなった。ママとまた話でもできたらいい、と思った。

 踏切に向かって僕は歩き始めた。

何件か先に例の本屋があり、週刊誌の立ち読みで学生がたむろしていた。

喫茶店は、彼らの向こう側、階段を昇ったところにある、はずだった。

 その時、踏切の警報機がけたたましく鳴り始めた。

 僕は学生の後ろを通って階段の前に立った。

 シヤッターは降ろされたままだった。今日は定休日ではない。シャッターの下を見ると、新聞が何日分かたまっている。

 警報機の音が脳髄に響き始める。遮断機が下り始める。

 僕はシャッターを見つめ続けた。

 何が起こったのだ。

 電車が近づく。

 シャッターには一週間前の断水の知らせが貼られたままだった。

 急行が激しくレールを打って通過する。負けじと警報機が鳴り響く。

 その時僕はすべてを理解した。

 店が潰れたのだ。

 シャッタに貼られた紙を縁取る青と赤の二色を残して、僕の視界の全てのものがモノクロに変わっていった。

 僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 何かがまた失われた気がした。

 遮断機が上がり、一団となって人々が踏切を渡り始めた。

 僕はその流れを強引に横切って駅の自動販売機の前に立ち、喫茶店の窓を見上げた。窓は黒く沈んでいるだけだった、闇へと通じる入り口のように。

 それは、おそらく確かなことだった。あの喫茶店はもうなくなったのだ。

 と、僕の頬に何かが触れそこだけが冷たく濡れた。見上げると、街路灯の光線の中、通り過ぎる小さな無数の切片がある。雪だった。

 さらに顔を上げる。雪は僕を取り囲み、僕の周りにだけ降っているかのようだった。

 その時だった。喫茶店とは反対の方から自転車が現れた。

 ママだった。

 思わず力が入った。彼女は自転車を止め、こちらに向かって歩いてくる。僕には気づいていない。

 街路灯に映った彼女の顔は、いつもよりずっと濃く化粧されていた。濃すぎるとさえ思えた。

彼女は、僕の少し手前で止まり、雪の中喫茶店をしばらく見上げていた。

 何かを断ち切るようにホッとため息をつき、踵を返そうとした時、僕に気づいた。初めて店に入った時のような親しみやすい笑顔で会釈すると、僕に近づいてきた。

「お元気でしたか」

「今日店は……」

 少しの望みを託して僕は聞いた。

「潰れちゃったの。一週間前」

 明るく感じられるほどの応えようだった。

「あなた、夢が壊れたって言ってたけど、私もそうなの。だからあの時の話、身につまされちゃってね……ここんとこ、土地の値上がりで、家賃もどんどん上がっちゃって。お客さんは減る一方だったのに。でも、そうそういつまでも落ち込んじゃいられないし。マミもいますしね」

「マミちゃん、元気ですか」

「ええ。またベビーホテルでぐずってますけど」

 マミちゃんの顔が思い出された。

 おじしゃんに似てた。

「じゃ、夜の」

「クラブにまた勤めることにしたんです。では、時間ないですから。元気出して頑張ってください。まだ若いんだから」

 僕はただ頷くだけだった。

 ママは改札を抜け、新宿に向かうホームへ、階段を昇っていった。落ち着いた足取りだった。

 暗く澱んていた僕の中に、熱い何かが込み上げた。

僕は思わず、雪の中を走り始めた。

踏切を超えようとした時、また警報機が鳴り始めた。その中を僕は走り抜けた。

 さっきまで僕に降り積もっていた雪が、今は僕の顔を正面から打ちつけていた。