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 少年は麻子のことを忘れられなくなった。

 夜、布団に入って眠ろうかと微睡んでいると、不意に麻子の顔が浮かんだりする。

 それまでは平たい頬にちょこんと乗った鼻ばかりが印象にあったが、意外にクッキリとした大きな二重の眼がキラキラと輝いている。

 胸にやるせなく甘いものが広がった。少年は麻子を好きになったのだ。

 これが初恋というものだろうか。

 小学生の時にも似たような気持になったことはあったけれど、これほど対象がはっきりしたのは初めてだった。

 好きな人が欲しい、そう思っていたのに、実際に好きな人が現れたことに少年は戸惑っていた。

 麻子とは何の話も出来なかった。

 教室で彼女が英語の教科書を読むのを眺めたり、部活の時ソフトボールを追いかけている姿を目にするだけで、胸にいとおしさが広がった。

 少年には麻子がいつも生き生きしているように見えた。

 中学校生活なんてこんなもんさ、と思っていた少年の中で何かが蠢き始めていた。焦りに近い感情が時折少年を襲うようになった。

 麻子と話がしてみたい。

 痛切な願いだった。

 チャンスはあっけなく訪れた。

 

 給食の配膳の時、偶然麻子が少年の前に並んだ。

 少年は白い給食着の列に加わり、教卓に並んだ食器を取った。

 配膳係が汁物のおかずを麻子の食器に入れようとした時、前の女子との話に夢中だった麻子の食器が揺れ、汁が少年の給食着にかかった。

「あっ」

 少年は声を上げ、麻子は振り返った。麻子は事態をすぐに理解し、

「ごめんなさい」

 慌てて言った。

「いいよ、いいよ」

 少年はドギマギしたが、平静を装った。

「でもビチョビチョだよ」

 麻子の前の女子が言った。

「ほんと、ごめんね」

 麻子はもう一度謝ると、給食着のポケットからティッシュを取り出し、少年の給食着を拭きながら、

「今日洗うから」

 と言った。

 給食帽を被った麻子の顔が、少年の胸の前にあった。長い髪を帽子の中に入れて、露になった白いうなじに後れ毛が眩しい。

 このまま麻子の肩を抱いてしまえたら。

 少年の胸に痛みが走った。その痛みで我に帰った少年は、慌てて一、二歩後ずさり麻子から離れ、

「そんなことしなくていいよ!」

 自分でも驚くほど大きな声だった。

 自分の後ろめたさを隠そうとするかのように。

 麻子は屈んだ姿勢のまま少年を見上げた。眉間に縦皺を寄せ悲しげに見えた。

「ごめんね」

 ぽつりと言った。

 少年はとてもひどいことをしたような気がした。が、黙っていた。麻子は気を取り直したように明るくカンと言った。

「とにかくそれ脱いで。昼休みに洗えば明日までには乾くから」

 少年はおとなしく給食着を脱いで彼女に渡した。

 その日の午後、教師の声はうわの空で、少年は窓際に揺れている白い給食着を見ていた。

 麻子が拭いてくれた胸の辺りに陽が当たっている。少年は自分の胸の辺りも暖かい気がした。

 

 翌朝、給食着を取るために、少年は早めに登校した。

 いつもは制服達でごった返す下駄箱も廊下も森閑としていた。朝の光の中で神々しくさえあった。

 思わず深く息を吸う。冷気が鼻腔から喉までを冷たく通り過ぎた。

 教室の入り口に立つと、窓に給食着はなかった。

 教室には麻子がいた。自分の席に座っていた。

 少年の胸がドクンと大きく波打つ。