今回は、本題に入る前に、なぜクラリッサの意識にこだわるのか、そして訳者による解釈を紹介しつつ、そこに感じた違和感について考えていきます。

2、こだわりの理由

 では、そもそも私はなぜそこにこだわるのだろう。クラリッサの大切なものと恐怖感、そして青年への共感に。

 まずは素朴に疑問だった。それらの内実とはなんだろう、と。

 次にテーマとの関連がある。

 ロンドンの初夏の一日を、何人もの人の意識を通して描いていく、決してわかりやすいとは言えないこの小説の、それらはラスト近くにある。

 クラリッサのそれらが分かることは、この小説のテーマ、そう言って悪ければ、肝のようなものを掴むことになる、そういう予感があった。

 さらにそれはウルフ理解につながるのではないか、そうも思えた。

 冒頭書いたように、このところ小説はウルフのばかり読んできたのは、彼女の書くものにある、瞬間の啓示とでもいったものに魅せられたからだ。

 だからそれはダロウェイ夫人のものばかりでなく、作者ウルフのものでもあるだろう。

 とすれば、大切なものだけでなく、恐怖感、青年への共感がわかれば、ウルフをより理解することにつながるに違いない。

 それだけではない。それは自己理解のためでもあった。

 クラリッサの喜びに、ウルフの感興に惹かれるのは、同じ質のものを自分も感じるからだった。

 クラリッサ、あるいはウルフと自分は似たところがある、そう思えた。だから彼女をわかることは自分をもわかることにつながるのではないか。

 そしてそのことで、私は、自己を理解し、よりよい生への方向を展望することができるのではないか。

 加えて、クラリッサを、ウルフを、自己を、自分なりに理解し、生を展望することは、まずは自分のためではあるが、そのことを通して、なんらか、社会に寄与するものになるかもしれない。

 クラリッサ、ウルフ、『ダロウェイ夫人』の理解としてなにがしかを付け加えることができるかもしれないし、自己の生を展望することが、誰かの参考になるかもしれない。

 それらを見据え、その端緒として、疑問に感じたラスト近く、クラリッサの大切なもの、恐怖感、青年への共感にまずは的を絞ったのだともいえる。

 だから、この文章は、今後断続的に続くだろう、『ダロウェイ夫人』の、ウルフの、彼女の他の作品の、考察の第一歩でもある。

 そうした意味を見据えつつ、私は、彼女の、クラリッサの大切なもの、恐怖、共感へと向かうのだ。

3、丹治愛氏による解釈

 そんなことを考えながら、引用してきた集英社文庫の『ダロウェイ夫人』の訳者丹治愛氏による解説を読んでいると、私のこうした疑問へのドンピシャな解答が見つかった。

 丹治氏によれば、ダロウェイ夫人は、老いの必然と時の無常への恐怖を感じつつ、瞬間それ自体を楽しむ態度を持っている。

 そしてそれは、キリストによる世界の救済を唱えるその宗教の解体という十九世紀後半を通じて進んだ事態のもとで、「瞬間」を、終末との関連においてでなく、それ自体として楽しむ精神でもある。(丹治解説p376、377)

 氏によれば、クラリッサ・ダロウェイの恐怖とは、老いの必然と時の無常であり、喜びとは瞬間を楽しむことなのだ。

 しかし、どうか。

 確かにクラリッサは、最初に青年に共感した時、考えている。

「わたしたちは生きつづける……わたしたちは年をとっていく。だけど大切なものがある。

――おしゃべりで飾られ、それぞれの人生のなかで汚され曇らされていくもの、一日一日の生活のなかで堕落や嘘やおしゃべりとなって失われてゆくもの。これをその青年はまもったのだ。

その中心が不思議に自分たちから逸れてゆき、凝集するかに見えたものがばらばらに離れ、歓喜が色あせ、孤独な自分が取り残されるのを感じている

――だから死はコミュニケーションのこころみなのだ。死には抱擁があるのだ。」(丹治 p329)

 老いと日常の浸食、言いかえれば無常が、大切なものを失わせる、と。

 丹治氏によれば彼女のセプティマスの自殺への共感はここから発する。歳をとり、日常の無駄なもので失われていくものをこの青年は死によって守ったのだと。

「最終的目的をもたずにただ無常のなかに消えていく時に抗して、はつらつたる瞬間をまもるために命を絶った(と彼女が考える)青年に共感をおぼえているのだ。」(丹治解説p379)

 

 青年は生の歓びをもたらす瞬間を日常の無駄なものから守って死んだ。瞬間を大切に思うからこそ死を選んだ。

 いわば瞬間至上主義。その点で、クラリッサは、青年に共感している。

 しかし、直後、ダロウェイ夫人は、向かいの窓におばあさんを見つける。昼間もそうだった。

 そして、「……「静かに」無常に流れてゆく人生の果てに必然的に訪れる老いにもそれなりの尊厳がありうることを、そのおばあさんのなかに直感」する。(丹治解説p380)

 そして生へと戻っていく。

「こうしてミセス・ダロウェイは自殺した若者への共感をこえて、生きつづける」。(丹治解説p380)

 したがって、以下のような解釈になる。

「もともと「時」と名づけられていたこの小説は、一八九〇年代から第一次大戦にかけてのイギリスの精神風土をえがきながら、老いゆく女性の、あるいは老いゆかざるをえない人間の悲哀を、生命力にみちた六月のロンドンを背景にして美しくうたいあげている。」(丹治解説p380)

 見事な解釈。

 しかし、釈然としなかった、私は。

 見事すぎるから。きれいすぎるから。何か置いてけぼりを食ったような、そんな感じ。

 すこしでも言葉にすれば、すでに見てきたこと、クラリッサの大切なものとは瞬間の輝きだけか。

 恐怖とは老いと無常だけか。

 若者への共感とは死によって瞬間を守ったことに対するものだろうか。少なくともそれだけか。

 他にもあるように読めないことはない。

 というか、他にもありうると思うから、この小説、このクライマックスは、私の心を揺さぶり、考えを促してくるのだ。

 わたしは、だから、クラリッサの大切なもの、恐怖、青年への共感について、慎重に考えなければならない。

次回は、クラリッサにとっての大切なものと、恐怖感について考えていきます。

第一回はこちらからご覧いただけます

『ダロウェイ夫人』を読む(第一回)――クラリッサの大切なもの、恐怖感、青年への共感とは何か | 芸術をめぐって

他にも絵画や映画をめぐる考察、小説など綴っています。静かな時間に、ふと、覗いていただけたら嬉しいです。