ミロ「花火」の衝撃の源泉について考え、そこからのミロへの共感、しかしだからこその行き詰まりについてです。
Ⅱ-1、ミロの衝撃の源泉を探る「精神の自由」を求める姿勢
こうして私は、「花火ⅠⅡⅢ」が持つ、衝撃的なまでの力の、依って来るところを考え、
それを明らかにするために、図書館で借りたミロ関連の書籍を読み、過去のミロ展のパンフレット、ミロの画集を、読み、観ていった。
Ⅱ-1-A、ミロの衝撃の源泉①=「精神の自由」を求める姿勢
まず見えてきたのは、花火の力は、彼の精神の自由を求める闘いの姿勢からくるのではないか、ということだった。ミロは言う。
「私は生まれつき無口で、悲劇的な性格をしている。そして子どものころ、深い悲しみの時期を経験した。今はだいぶ安定しているが、すべてのことに飽き飽きし、人生が無意味に思えることが多かった。理性でそう考えるのではなく、そういうふうに感じる。つまり私は、ペシミストなのだ。(略)/逆に、私が進んで自分に課しているのは、精神的な緊張だ。」(ジョアン・プニェット・ミロ、グロリア・ロリビエ・ラオラ著、大髙保二郎監修『ミロ』「ミロの言葉」p118 創元社2009年。以下『ミロ』と略)。
ペシミストである自分から脱するためにミロは、緊張を求めた。それは自分の性向から自由になるための闘いだろう。
あるいは『対話』の中、
「アカデミックな画風からするとあなたはデッサンが下手だということを承知の上で画家になりたいと思ったわけですか?」
というライアールの問いかけに答えてミロは言う。
「下手にもかかわらずというのではなく、むしろ下手だからこそ私は画家になりたかったのです。なぜかというと非常な努力が必要だったからです。そこには必然的に闘いがあったわけですが、私の人生の場合いつも闘いが私を引っぱって行ってくれたのです。私は画家になりたかったのです、絵に専念したかったのです。もちろん、中途半端なもので満足するわけにはいきませんでした」(p156)。
別の個所でも、
「技巧がなくてよかったと思っています、技巧を持っていないからこそ自分を表現するために自分の内部で反抗しなくてはならなかったのです。容易に仕事ができる自分だったら、こういう激しさも弱まっていたでしょう」(p251)
技巧のなさを逆手にとって、それと闘うことに意味を見出し、画家となっていったミロ。これもまた、自身からの自由を求める姿勢だろう。
『対話』には自由をめぐってもっと直接的な言葉もある。
「……私達(ピカソ、ジャコメッティ、ブルトンらかつての友人達とミロ自身……引用者)は人々により多くの自由を与えることができたような気がします。……精神の自由です。そして精神の自由というものによって新しい視野が開けるのです。」(p96)
ミロが求めたものは精神の自由だった。それは鑑賞者に求めるものであるとともに、自身の求めたものでもある。
さらに『対話』には、ライアールの問いかけに答えたミロのこんな発言もある。
「三千年後に誰かがあなたの絵を見たときを想像してください、何を読み取ってもらいたいと思いますか?」「絵画だけでなく、人間の精神の解放を私が手助けしたことを理解して欲しいです。」(p252)
精神の解放、言いかえれば精神の自由、それに対する貢献への自負。ミロがどれほどそのために闘ったのかがわかる言葉だ。
こうして私は、花火の力の根源に、ミロの精神の自由を求めての闘いの姿勢を見出した。
Ⅱ-1-B、ミロの衝撃の源泉を探る②=「今、ここ、これ」
さらに、文献を読み進める中で、花火の力は、ミロの「今、ここ、これ」を大事にし、そこに依拠して作品を描いていく姿勢にあるのではないかと思い至った。
「私にとって、物はすべて生きている。このたばこ、このマッチ箱は、ある種の人間よりもずっと強い生命を秘めている。」(『ミロ』p119 創元社2009年)。
すべてのものに生を見る目。それはすなわち「今、ここ、これ」から出発しているからこそ可能になるだろう。あるいは逆にすべてのものに生を見るからこそ、その一つ一つの現在、すなわち「今、ここ、これ」から出発するとも言えるかもしれない。
『対話』にはこんな発言もある。
「かたつむりにあなたが特権的な価値を与えるとき、それはその外見が美しいからですか、それともそれの持つ豊かな象徴性によるものですか?」というライアールの問いに対し、
「いや、象徴性とは関係ありません! 私が動物や昆虫が大好きなのはご存知でしょう。」(p75)
ミロの描くものは、何かの象徴ではなかった。まさにそのもの、「今、ここ、これ」こそが重要だった。
さらに制作も同じである。
「平らに置いてあったカンバスの上で、ベンジンを使っていくつかの筆を洗っていたのです、こういう具合に(と腕でその動作をする)。このみずみずしさと、この激しさを損なわないために、私は絵にはあまり手を加えるつもりはありません。この、呼吸する線のみずみずしさを押しつぶしてはいけません。それは心臓の鼓動のようなものです。」(p52)
作品に対してもそのものを大事にする姿勢が見て取れる。ミロは制作の場合も「今、ここ、これ」に依拠していた。
ミロは、作品を何かの象徴とすることなく、今ここで描いたそのものとして、今ここで発展させていく。すなわち「今、ここ、これ」の重視である。
そしてさらにこの点が、ミロが日本に惹きつけられた理由でもある。ミロは言う。
「私は若い頃から日本の浮世絵にとても興味を持っていた。そして、水滴、小石、一握りの砂のような、一見意味がないものに対する日本人の独特な捉え方に感銘を受けた。」(「私の」p18)。
意味がないように見えて確実に存在する「これ」への態度への共感。ここには「今、ここ、これ」に目を注ぐ、日本人に通底するミロの視線が現れている。
同じことは、ミロの生きる姿勢にも言える。『対話』の中で、ライアールは聞く。
「マルローはピカソに概念や意図を見出していますが、あなたは完全に瞬間に生きていると言っていると思いますか?」。対してミロは瞬時に返す。
「そのとおりです」、と。
瞬間に生きること。これは、ミロの生きる姿勢であると同時に、絵画におけるそれでもあるだろう。
Ⅱ-1-C、ミロの重視したもの、二つの関係=「精神の自由」と「今、ここ、これ」
では、今考えてきたミロの「花火」の衝撃の源泉にある二つ、「精神の自由」と「今、ここ、これ」を重視する姿勢とはどのような関係にあるのだろうか。
「今、ここ、これ」の重視とは、では、いったい「今、ここ、これ」という個の何を大事にすることだろうか。結論的に言えば、そのものの、個性の重視と言えるのではないか。
対象の、伸びようとする方向、発展しようとする方向を大事にすること。
そのものの発展しようとする方向、それこそが自由なのではないか。
そしてそれを受け止め援助すること。そのことがまた翻って作者の自由ともなる。
そういう関係ではないか。そういう関係として「精神の自由」は「今、ここ、これ」と繋がる。「今、ここ、これ」を重視することは対象の自由を尊ぶことであり、それを通して自らの自由を開花させることでもある。
Ⅱ-2、ミロの姿勢への共感
共感した。仕事柄、また、世界観の上でも。納得し、励まされた。「今、ここ、これ」からの出発というのは、仕事で、また世界観で、自分が求めてきたことそのものではないか。
Ⅱ-2-A、ミロへの共感①=仕事上
仕事柄共感したとはこういうことだ。
三十年以上、塾で国語を教える仕事に携わってきた。初めは集団塾。この十年は個別塾。個別に移ったのは、右肩の凝りがひどく、板書ができなくなって、利き腕でない左手で書くようにし、それで見栄えが悪くなり、板書の速度も遅くなって、生徒による授業アンケートの数値が落ちたからだった。それまでもさしていいわけではなった。が、続けていくには十分の数値だったのが、平均をわずかに下回るようになって、後期授業の最後に学務課から担当者が現れ、このままではまずい、要は、あと一年ダメだったら首だと、言い渡され、翌年度は角番、右肩はどうにもならず、左手で書いていたから、数値の上昇は望めず、そのプレッシャーからだろう、アンケートに振り回されるのが馬鹿らしくなって、辞めた。
しかし、その二年前から、同じ塾の個別質問コーナーで週二日、三時間ずつ、質問に答えていて、生徒の顔は見えるし、成果もわかる、面白かったから、別の個別塾に登録し、翌年、一人の生徒を担当し、そこそこのところに受かり、翌年担当の生徒が偏差値を二十延ばし難関校に受かって、次第に生徒数が増え、この十年やってきたのだった。
十年教える中で、プロが教える学費の高い個別塾に来るのは富裕層の子女、甘やかされtた子もいて、ウンザリすることもあったが、それでも一人一人と丁寧に接してみると、恵まれているのはたしかにしても、彼ら彼女らには、その生徒一人一人の個性と思い、目標があって、そこに向き合っていくことの大事さを感じるようになっていた。今目の前にいる生徒を大切にすること。言いかえれば「今、ここ、これ」からの出発。ミロと同じに思えた。
Ⅱ-2-B、ミロへの共感②=世界観
世界観上の共感もあった。
受験の国語を教えているせいだろう、近代科学への疑いとでもいったものが、自分の常識のようになっている。現代文は、近代批判の文章が圧倒的だから。現代の課題を克服するための、それは一つの現れだと思う。
加えて、政府主導の、というか財界主導の理系重視、文系軽視への反発もあって、科学主義というか、特に自然科学の方法を、何より重視する考え方、いや唯一とするに近い思考、さらに言えば世界観に反感があった。
自然科学は、法則の発見を第一義とする。そしてそれは数式で表される。発見されれば、同じ条件の下でなら、「いつでも、どこでも、誰にでも」妥当する。いわゆる普遍。法則と量化の世界。
それはそうだ。その力も、有用さも、全く認める。しかし、それが世界だ、世界の全てだ、と言ってしまうのは違うのではないか。そうしてしまうことで、大事なものが抜け落ちてしまうのではないか。あるいは抑圧してしまう。
それは端的に言えば「今、ここ、これ」のみに妥当すること、普遍に対する個別といえる。特殊でも足りない。個別と固有。
自然科学主義は、個別と固有を認めず普遍と量に還元することでそれらを抑圧する。
科学がいらないというのではない。その成果には十分に謙虚になりつつ、利用もしつつ、しかし、個別と固有への視点も持ち続けること。あるいは、個別のためにこそ、普遍はあるのだと、肝に銘じておくこと。
その世界観が、自分の依って立つ基盤だと考えるようになっていた。その応用であり現場でもあるのが個別塾だった。「今、ここ、これ」の重視。ミロ。
Ⅱ-2-C、ミロへの共感③=社会科学
同じことは社会科学をめぐっても言える。社会あるいは歴史の法則といったものを掲げることで、個別を抑圧する、その機能を、社会科学が果たしてこなかったとは言えない。
また「大きな物語」の終焉による「小さな物語」の重視という視点も、それが「物語」であることで、何らかの一般化をまぬかれないことも、ほかならぬ社会科学によって指摘されてもいる。意外なもの、他なるものの発見、重視が言われる。普遍と量への一面化への批判として質的研究(*1)とか物語論の精緻化(*2)とか生徒に根差した学力論(*3)など。
中でも、私の仕事、また、考えとかかわって、フェミニズムから提出されている、正義の倫理からケアの倫理へ、という新たな主張は、まさに西洋近代からの転換を示している(*4)。
西洋近代の社会科学は、自立した存在のみを権利主体として、その立場から、人間を裁断してきた。正義の倫理である。しかし、人は自立までに誰でもがケアされる存在であり、老いてまたケアを必要とする。そればかりでなく実は自立している最中でも何等かの形で誰かからケアしてもらっているのだ。そしてそのケアを担ってきたのは、多く女性だった。さらには、権利主体の中には白人しか含まれなかった。つまり西洋近代のいう権利は、ほんの一握り、自立した白人男性のみを想定し、子供、老人、女性、非白人を排除してきた。
そうした狭い権利ではなく、誰でもがいつかは、いや今も、必要としているケアを倫理の軸に据えていく必要がある。
その主張は、私の仕事にダイレクトに響いた。生徒を、合格から見た不十分な存在と見て、合格のためという正義を振りかざし不十分さに怒る自分から、合格という狭いものに向かってにせよ、そこに向けてケアされるべき存在として見ること。
いいかえれば、生徒の「今、ここ、これ」から出発すること。そう私は考えるようになっていた。
そしてそれは、生徒の自由を重視するからの立場と言える。生徒が伸びたい方向、すなわち自由に手を貸すことで、自らも自由になる。
(*1)井頭昌彦編著『質的研究アプローチの再検討 人文・社会科学からEBPsまで』勁草書房2023年)
(*2)浅野智彦『自己への物語的接近 家族療法から社会学へ』ちくま学芸文庫2025年)
(*3)今井むつみ『学力喪失 認知科学による回復への道筋』岩波新書2024年)
(*4)岡野千代『ケアの倫理 フェミニズムの政治思想』岩波新書2024年)
Ⅱ-3、ミロをめぐる行き詰まり
だとすれば、ミロの芸術は、自分と同じ方向を向いている、同じものに依拠している、そう思えた。
自分の問題、自分の現場とも絡んで、ミロの、一番目の衝撃からの考察は順調であるかに見えた。
しかし、実は、ここから行き詰まりが始まったのだ。
「花火」からの衝撃、その力を考えるために、私は、当日観たミロの他の作品との比較をしてみようと考えた。
「花火」だけ、なぜあれほど衝撃だったのか、と。
裏を返せば、「花火」以外の作品には、なぜ魅力を感じないか。
もちろんそれはそれでいい。というか、仕方がない。が、一方で、なんとも言えない虚しさが私を捉え始めた。
ミロの言葉から彼の「精神の自由」を重んじ、「今、ここ、これ」から出発する創作を知ってきて、それらの一貫した追求である作品群を目にしながら、それらを感じたのが「花火」だけということ。他の作品はつまらなく「花火」だけに魅力を感じたという事実。
そこから「花火」について仰々しく論じることは、ミロの作品群を前にして、あまりに狭く一面的ではないか。そういう気がしてきたのだった。
もしかすると、すでに読んでいて、引用もしてきた『対話』の中のミロの言葉が、どこかで影響を与えていたかもしれない。
「……私の好きな人の中で、たとえ私のしていることに全然惹かれない人がいるとしても、その人が意地悪だとは私は思いません。仕方のないことです、その人はただ心を打たれなかったのですから。しかし、私はある種の批評に傷ついたことはあります、意地が悪いというだけでなく、知的な怠惰が伺われるものにです。(『対話』p143)。
知的な怠惰。
自分のことではないかと、記憶の片隅にあったかもしれない。
自分のそうした感性を晒すことが恥ずかしいというのではない。むしろ、その程度の感性なら、その感性からの文章なら、書く意味もない、そう思えた。
行き詰まり。
気持ちは暗く沈んだ。
次回は、行き詰まりから反転し、自身の囚われの発見というミロによる第二の衝撃、そこからのミロ再発見の可能性についてです。
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